メルマガ用の対談原稿を書き、本を読む。
サイバーセキュリティの翻訳を一本終わらせ、本を読む。
別件のファッション関連のメールの翻訳をたくさんして、本を読む。
ふとよぎった考えを、消えないうちにノートに書いて、本を読む。
フィンランド人のジャグラーのインタビューを聞いて、本を読む。
ふと思い立って英語のジャグリング記事を一本翻訳して、本を読む。
別の方がまとめているインタビュー記事の下書きを読んで、ふふ、と笑って、本を読む。
隣に住むベトナム人ホアさんからお願いされた、日本語ドリルの回答をし、本を読む……
ぐるぐる、いろんな用事を済ませながら、合間でブータンに行ったり、ホーチミンに行ったり、フィンランドに行ったりネパールに行ったりしている。
そういえば、まだ北極の旅が途中だったな、とか、ソマリランドって今どうなってるかな、とかも思う。
よく書けた紀行文を読んでいると、文字を通して思い浮かべた情景なのに、さも自分が体験したかのように感じる。不思議だね。だって、本当に、ソマリランドも北極も、行ったことないのにさ。僕はほとんど、そこに行ったことがある気になっている。本当は何も知らないのに。何も。
本を読むという行為は、「思い出す」行為に似ている。とても似ている。似すぎていて、ほぼ同じだ、と言って差し支えないほどだ。
本に書いてある文字や写真で、何かを想像する。
その時、脳みそは、自分の体験の中から、似たような質感の情景や匂いを連れてきて、それをじんわりと発生させ、擬似体験しているんだ。読書中はせわしなく、そういう一連の刺激をぺたぺた張り合わせている。
思い出す、ということも、同じ。自分の体験したことを自分流に好きに組み合わせて、今に持ってくる行為だ。
そう思うとさ、文章って、ヨソから刺激を与えて、人の頭に、強制的に勝手な思い出を作り出す装置だ。今僕の文章を読んでいるあなたも、僕が作り出した「思い出発生装置」を覗き込んでいるわけだ。
本を読む以外に身体で体験したことは、思い出すための素材になるし、読書をして思い出された感覚は、その次の自分の行動を変える。
体験は読書を変えるし、読書は体験を変えるのだ。
※※※
新しいことをすればするほど、やりたいことは、ますます増えていく。
今は、とにかく外国語を浴びるように聞いて、読んで、発したい。
ドイツ語、フィンランド後、スペイン語、中国語、イタリア語、長らくほっといてるので、浸かりたい言語はいっぱいある。とてもじゃないが、全部一日じゃできないよ、と思うが、同時に、全部一日でぜーーーんぶやっちゃいたい、という大人気ない自分もいる。漫画だって描きたいしさ。
一応、ざっくり予定を書いたりしているんだけど、まぁ守んないよね。
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