2021年10月31日日曜日

ながいつぶやき(205) 生活のリズムを考える

家で‪Uber Eats‬をオンラインに。方向がちょうどいい依頼を待つ。ここ最近のウーバーのUIでは、依頼がきた時点で到着地もあらかじめ表示されるようになった。ありがたい。地域を狙い打ちして動くことがより容易になっている。逆に依頼拒否も増えるんじゃないかと思うのだが、ドライバーの数も増えたから、それでも回るんだろう。

以前は「お店から届け先まで」の距離のみが料金の基準だったが、おそらく今は、「現在地から店までの距離」も賃金に加算されている。それで全体の賃金が上がったのではなく、ただ方式が変わっただけで、その分の調整はされており、どちらかといえばやや単価は下がったな、という印象。

まぁシステムを組む方も、加盟店やドライバーの増減、季節、コロナの状況、色々なファクターを受けて変化する情勢に合わせて変化を加えないといけないので、大変だろうね。こちらもそれに合わせて、稼ぎと楽しさが両立する、バランスが取れるやり方を適宜更新する。

さて、家でオンライン20分ほどで、いい感じの依頼が引っかかったのでバーっと走って終わらせて、すぐそこにあるドトールに入った。モーニングのセット、アボカドチキンサンドとブレンドコーヒー。今、そのドトールで書いている。

週末はまとめて配達をして生活に必要なお金を稼いで、あとの平日は、自分が仕事だと思っていることをやる、というスタイルが合っている感じがする。

※※※

この「ながいつぶやき」については毎日更新しよう、と思っていたが、いや、そのタイトルの通り、呟きたいことがあるんだけど、でもちょっとTwitterで言うには長いな、でも文章の形にしておきたいな、ということが合った時に使う、という方針でしばらく使ってみる。

2021年10月28日木曜日

ながいつぶやき(204)

所用で名古屋にいたが、朝方バスで帰ってくる。バス内で文字起こしひとつ終わらす。東京駅に着く手前、途中で降りて大吾さんに会う。今後の話をする。

横浜に帰って、一度帰宅、YDC(横浜大道芸倶楽部)の体育館に行く。3時間ジャグリングする。

そして再び帰宅。

明日から少し意識して働くことをしよう、とおもう。

先々の予定が決まっている方が行動がうまく行く。1ヶ月先の予定から逆算して、今から1時間何をするかが大体決まる、というのがいい。自分はなぜそれをするのか、ということが宙に浮いたままだと、集中できないのだ。「何をするのも自由」であるということはあおれだけで不安と戦うことになって、大変な精神的コストを強いるからである。

自分で決めた予定が詰まっているのが一番いい。

2021年10月25日月曜日

ながいつぶやき(203) 直感を信じたからいいか

僕は人に会うことによって、書きたいことをどんどん減らしているのだ。なかなか共有できていないことを一気にまとまった形で共有したい、ということが書くことの一つの動機付けである。あんまり人に会わなくてもいいのかも。でも僕はとにかく寂しがり屋なので、ついつい人のいるところに出かけ、やたらにしゃべってしまうのである。
※※※
USBで温まる電気毛布を無印で買ってきた。本当はニット帽を見にきたのだが、毛布の方がパッと目に入って、これだ、と思って買った。本格的に寒くなってきて、仕事をするときに重宝するのではないか、他にも湯たんぽの代わりになるんじゃないか、などと思ったのである。
だがちょっと温まる面積が小さくて、どうも思ったほどは使い勝手が良くないかも。
直感を信じて買ったから、まぁいいや。

2021年10月23日土曜日

ながいつぶやき(202)

昨日、生活綴方の数人と連れ立って、近所のクラフトビールを飲んだ。普段もお店で会っている人々だが、集まろうという意思を持って人と集まると感じがまったく違う。やたらにベラベラと喋ってしまう。

ご飯は美味しい、ビールも美味しい。

何を言おうか、と考え、その考えたことを実行するのに適した間が一瞬しかなく、絶妙な、タイミングをとらえる、ということが面白いのだ、と直感された。

2021年10月22日金曜日

ながいつぶやき(201)吹き抜け

この場所は、解像度を低く、なんでもとにかく、頭に浮かぶことを書く、という場所である。だから、書いたことは書いた端からさっさと忘れていく。別にさほど重要なことも書かない。だが、別に素晴らしいものでなくても、とにかく書いて考えるという行為そのものに体を慣らすことに意味がある。毎日描いている絵もそういうところがある。
でも、それとは別で、キリキリとした気持ちで書いている時間も欲しい、と思い始めている。

※※※
今日は、大和市にある冒険研究所書店に行ってきた。2回目の来訪。前回来た時(9月)に、「来月は角幡唯介さんの展示をやりますよ」と聞いていた。角幡唯介さんは、昨日も紹介した『極夜行』をものした探検家である。まさに『極夜行』で実際に使われたウェアや、その時の写真、他にも、店主の荻田さんと一緒に北極の旅をした際の映像が見られた。ほぼ10月いっぱいでに第一部の上映が終わり、11月2日から後編が流れる、というので、見逃さないうちに行ってきた。
角幡唯介さんの著書も多く置いてあり、最新作『狩りの思考法』と、文庫版『旅人の表現術』、それに、2冊の古典的冒険ノンフィクションを買った。最新作については、この書店での先行販売が今日からだったので、多分お金を払って買った人は第一号ではないか、という。

帰り、大和駅近くの図書館シリウスの下のスターバックスで少し読む。
吹き抜けでとても寒かった。



2021年10月21日木曜日

ながいつぶやき(201) 極夜とそうぞう

義務を朝に終わらせてしまいたいので、今、11時に文章を書いている。
昨日午後9時半ごろに寝て、午前2時に起きた。もう少し寝ていようかとも思ったが、せっかく起きたので、やれるところまでやることにする。コーヒーを淹れて、ドーナツを買ってくる。ヨーグルトも買ってくる。食べながら、本を読む。昨日買ってきた文庫版の『極夜行』(角幡唯介 著/文春文庫)である。非常に面白い。これまで読んだ数冊の角幡唯介氏の本の中でダントツに面白い。なるほど、本人も「最高傑作です」というわけだ。執筆のスタイルが、冒険の水準と合致していて、肩が凝らないような文体で、壮絶な体験が綴られている。余白がしっかりある感じがする。
あんまり冷えるので、お風呂も入れて、30分ぐらい入浴しながら本を読んだ。
上がって、今度は5時から6 時ごろまで、絵を描く。
本当の意味で一人で絵を描いていると、他にいろんなことが頭に自然と浮かぶ。
このことが、まさに『極夜行』で角幡唯介さんが体験していることと重なる。彼は、来る日も来る日も星を頼りに、真っ暗闇の中を、雪上を進行する。他に考えることもないので、自然に星たちを擬人化する物語が頭に浮かんでくる。古代ギリシア人が毎晩星を眺めて、そこに神話を紡いだことを、感覚として理解した気がした、という。
一日中一切太陽が上がらない極夜で歩くほどの壮絶な体験と比べたら、たかが早起きして机に向かっているだけだけれども、自分で何か生み出すより仕方がない、という状況に自分を置けることは幸せだなと思う。
創造は退屈と表裏一体だと思う。一日の中で、退屈だ、何か作ろう、と自然と思える時間を数時間でいいから持つことは、至上の喜びだ。

その後、6時から9時ごろまで二度寝する。9時に起きた時点で、もうほとんど今日やりたいことが終わっている。本当に心地がいい。やっぱり早起き以外に人生を充実させる方法ってない、と本気で思う。
これから、上野の方まで出かけてくる。


2021年10月20日水曜日

ながいつぶやき(200)「引き抜く」か「押し戻す」しかないもの

朝、8時ごろ起きる。
自転車のタイヤが届いた。インターホンを鳴らされると、NHKなどを警戒して(我が家には受像機器が一切ないので払わなくていいのだが)無視することも多い。今日はなんとなく確認する気になってカメラで映像を見た。郵便局の人だった。再配達では面倒だったので受け取れてよかった。
自転車の部品をわざわざ自分で注文して手に入れるのは初めてだ。イギリスに本拠がある会社に注文した。部品を持ち上げると、下にハリボーのグミが入っていた。こういうユーモアが好きだ。
天気がいいので今のうちに、と思って、すぐにタイヤ交換に取り掛かる。これまでにYouTubeを見ながら、なんとなくのイメージは掴んでいたが、もう一度おさらいの意味で同じ映像を見ながら、それに合わせて実行する。
なんてことはない、タイヤを外して、新しいのをつけて、またもとに戻す、というだけのことだった。ディスクブレーキの部分やギアの部分の取り外し、付け直しは少しだけ戸惑ったが、早い話、「引き抜く」か「押し戻す」しかない。自転車がいいな、と思うのはこういうところだ。作りがシンプルで、人間が日常生活で培うことのできる直感で大体修理できる感じがする。
本当は全ての道具がそうであって欲しいな、と思う。

※※※

自転車が直ったのが嬉しくなって、そのままカフェまで走る。一仕事終えて、今度は公園に行く。
久しぶりに外でジャグリングを練習した。とても気持ちがよかった。同じ動きを反復して練習しているうちに、ジャグリングというのは、投げたりとったりするのが楽しいからやっていることである、ということが直観された。
ジャグリングは見せものである、という前提で練習するのはちょっときついことだなぁ、と思った。別に見せるようなものではないんだけど、練習していたらちょっと人前で見せるのに手頃な、面白いものになった、というぐらいがちょうどいい。
そういう態度がいい。

ながいつぶやき(199)

 知り合いの人の娘さんに、英語を教えた。

といっても、ほとんど雑談をしているようだったが。

英語を「科目」として捉えないで、とにかく、ことばである、そこに世界が広がっている、というか、それ自体が世界の一部である、という認識について話したつもりである。


こうして人に教えていると、自分自身のことを振り返る契機にもなるね。

2021年10月18日月曜日

ながいつぶやき(198) 嬉しいの気持ちで

嬉しい、好き、の気持ちですべてがドライブされていたらいい。自分を動かすための燃料にはいろいろあるけどさ。

いやだ、の気持ちで生活がドライブされていると、どうも調子が狂う。絵にもいいものが出てこない、と思ったりする。

※※※

『DUNE』を見た。アクションもあるけど、叙情性が強調されている感じ。めちゃくちゃ面白かったか、と言われるとそうは言わないが、見られてよかった、と思った。誰かの思い出を体験したような気分になった。


2021年10月16日土曜日

ながいつぶやき(197)猫のサンプリング

熊谷守一という画家がいて、彼の絵に知らず影響を受けている。絵を描いてみると、なんだか、わかる。

サンプリング、という概念(まぁ、絵画では「引用」とかいうんだろうな)をテーマに絵を描いてみている。
※※※
美術手帖に載っていた横尾さんのインタビュー、読む。面白い。いい部分が刺激されている感じがある。自らの表現欲の青天井を見たい気持ちが湧いてくる。

2021年10月15日金曜日

ながいつぶやき(196) さっきまであっちにいたのに

頭の中にはいろんな計画がある。やるのだ、やるのだ。

僕は多動で、とにかく何かをやっていないといけないはずなのに、そこで理性が邪魔をしていて、本当に嫌になっちゃうね。

※※※

朝から実家に。墓参りに行き、久々に両親とご飯を食べる。部屋を少し整理したり、必要なものを持ち出す。そこから帰ったら、今度は東京の方へ、かつて一緒に働いていた人の展示を見に、タバネルブックスへ向かう。

タバネルブックスは、一昨年の11月にできた新しい古書店。僕はバイクで行ったので駅からどれぐらいの距離にあるのか感覚として定かでないが、住宅街の奥にひっそりとある。お店の正面には木が生えていて、それがまるで隠れ家のような雰囲気を醸し出している。

とても居心地がいい。店主の中野さんもとても親切に話してくれた。

ポストカードを買い、退出、それから妙蓮寺の綴方に向かって、一仕事終えて、今これを書いている。

※※※

自分はいったい、こんなところで何をしてるんだろう、という感じが味わいたい。さっきまであっちにいたのに、もうこっちにいる、さっきまであれをやってたのに、もうこれをやっている、と思いたい。

具体的な目標は、ただの方位磁石。

ながいつぶやき(195)とにかく、継続して、変化していく

またずいぶんほったらかしにしていた。けど、再開する。

※※※

今日は朝から出かけて、東京と現代美術館に、横尾忠則さんの展示を見にいく。仕事が全然追っ付いていない。電車の中でどんどん進める。iPadが役に立っている。ありがたい。

最寄りの清澄白河に着いたら、一緒に展示を見る大吾さんが一足先に着いてコーヒーを飲んでいたので、そこに混ざる。「ものすごく酸っぱいんだよ」と言っている。ブルーボトルは酸っぱいのがわりかし特徴だが、エスプレッソがそこまで酸っぱいとは思わなかった。そうなんだ。

歩いて美術館へ。ミナ・ペルホネンの展示ぶりだろうか。この美術館は、公園と一体になっていて、特に天気がいい日は気持ちがいい。

展示はいいものだった。必ずしも全ての作品が好きというのでもないが、横尾さんが継続して大きい作品を作り続けていることを否応なしに感じ、熱量が伝わってくる。展示を見ることは、エネルギーを受けること。

美術館を出て、ひとまず中華を食べる。四川料理。ってほどでもない感じがしたが、とりあえず四川料理やさん。でも、町中華、という感じだった。ご飯とスープがおかわり自由で、僕はご飯を二杯食べた。大吾さんはおかわりはしていなかった。油がたっぷり入っていて、これぞ求めていた中華。

食べ終わったら、エスプレッソ専門店に向かう。最近、エスプレッソの探求が二人の間でブームである。だがそこはオーストラリア、NZ系の珈琲店で、やはり僕が最初に大吾さんに紹介したようなイタリアンカフェとは違う。でも、美味しい。

コーヒーを飲みながら対談。でも、対談、というよりお互いの最近の話が多い。これでいい、のであるが、メルマガに載せる対談としてはあまり素材にならないような会話が多く、実際、メルマガに載せている今の形式の対談は、そろそろ辞めてもいいかな、という気分になってきているので、別の方向に向かい出す時。

そのまま公園まで再び歩いて、結局1時間半ほど話す。

駅まで一緒に歩いて、僕は別れて3331千代田アーツまでシェアサイクルで向かう。小指さんのTwitterがきっかけで知った、大勢のアーティストの作品が一堂に会する展示。こちらはこちらで、全く別の、より同時代的なエネルギーがあって、よかった。入ってすぐのところに、作品も展示している安西肇さんがおり、声をかけた。何か、こういうことがあるような気がしていて、案の定、それが起こる。

帰って、また仕事する。

とにかく、継続して、変化していく。

2021年10月8日金曜日

ながいつぶやき(194) サロン・ド・調整

書くことを不定期にすると、どうも精神が不安定になる、ような気がする。
自分の考えを書くというのは絵と同じで、具現化することそのものに意味がある。
役に立つとか、立たないとか、全く事前にはわからないが、考えというものに実体がないので、行為を与えてあげて実体にして、考えを知る。そのために行う。
※※※
大事なことなんてそうそう言えない。
同じように、大事な絵も、大事なジャグリングも、そうそう現れない気がする。
いや、どちらかというと、そういうものは狙って一発で出せるものではない、ということだろう。
毎日続けていて、その上で、調整ができるようになって、というか、そもそも何を調整したらいいのか、ということがわかってくるのだろう。その過程が「上達」ということなのだろう。

※※※
このところ寂しい、と感じることが多い。
一応、言葉で言えば「寂しい」が一番近いけど、本当はもっと微妙な感触のある気分である。
そういう時僕は、もし今自分に子供がいたらどうするだろうか、と考える。
なんとなく、まぁ別に寂しい、という気持ちをそこまで大事にすることもないかな、という気になってくる。

なんでだろうね。

自分の感情って、別に必ずしも自分にとってすら切実じゃないのかも、と思うからかな。

※※※
落ち着いてものを考えるには、早起きする他ないな、と思う。
暮らしをまた変えるとき。

2021年10月6日水曜日

ながいつぶやき(193)ただ現実と一人で対峙した成果

何ヶ月前の話だろうか。

僕は毎朝早く起きて、ブライアン・イーノの環境音楽を聴きながら、絵を描いていた。朝の4時ごろだ。「知覚できる範囲に自分一人しかいない」、という感覚をありありと手にすることができた。

自分の頭の中が世界で、その世界が無限に広がっていて、目の前にあらわれているボールペンの線は、その世界の断片である、と直接感じ取っていた。

絵を描くとき、自分が「なぜ描いているのか」は考えない。ただ、記憶が現実と交差するところの軌跡を、満足する形に仕上げていくだけの動作だからである。

小さい頃、ぬいぐるみで遊ぶのが無性に楽しかった。なぜか。

僕の頭の中には物語が常に走っている。今この瞬間も走っている。

その見えない物語と、現実が交差するところ、それが、僕にとってのぬいぐるみ遊び、その音声を吹き込んだテープ、という「作品」だったのだ。

今まさに書いているこの文章もまた、僕が「絵を描く」という行為に準じて走り出した想像を、必死で現実と交差させて、摩擦で生じた一瞬の光のように、発生させている。

その喜びのために、継続して作品を作り続けたい。

自分にしか感じられていないことを、この誰もが暮らしている現実というフィールドに接地させて、熱を感じられる、黒いものにしたい。

そこには、他者が入り込めない。

何かモノを作る、と決めた人格が、ただ現実と一人で対峙した成果、ということなのだろう。

2021年10月3日日曜日

ながいつぶやき(192)しばらく、ただよう

誕生日だった。年によっては、ただただ家で過ごして、YouTubeを見ていたりする。
今年は、大学時代の友人を呼んでプラッと近所の酒場で飲もうか、と誘ったのをきっかけに、ずいぶんたくさんの人に祝っていただいた。
とても嬉しい。
本当にありがとう。

昨日、今日で二日間とも誕生日のように過ごした。

その反動だと思うのだが、今、気持ちの深さがグッと、下の方へと変わってきている。
「落ち込んでいる」というのとは違う。
エンジンの回転数を落とすために必要な動作、という感じがする。

俺ってどんな人間だったんだっけ、と確認するような時間が訪れている。
行き場がない、というのか。

これは、長いことヨーロッパに行ってきたあと、帰国した日の感じにも似ている。
しばらく以前のトラックに戻って来られない感じ。

一体自分は何に属しているのか、わからない。

しばらく、ただよう。