2021年6月8日火曜日

ながいつぶやき(120)「こういう場所で毎日生活したい」ということではなくて

とても眺めのいいコワーキングスペースでこの文章を書いている。こんなところに住めたら最高だろうな、と思っている。別に住まなくてもいい。ただ、こういうスペースで毎日のように仕事ができたらいいな、と思う。

この気持ちをもうちょっと精査してみる。僕が着目しているのは、きっとこの、今の気持ちだ。都合で横浜を離れて名古屋の近くにいる。その上で、どこかいい感じのスペースはないかな、と思って検索し、見つかったスペースに電車に乗ってきて、初めての少し高揚感を伴った気持ちで、かつ、人数の少ない空間にいる心地よさとともに、ああ、こういう空間っていいな、と思っているのだ。

だから、この気持ち自体は、正確に言えば「こういう場所で毎日生活したい」ということではなくて、「毎日今のような清々しい気分でいたい」ということである。そこを勘違いしちゃいけない。一度いい思いをした場所があって、そこに思い入れを感じてしまうと、いざその場所で、当初のような思いを抱けなくなった時に困ったことになるのである。

それよりは、今感じている気持ちがどういう理由からきているのか、一つ一つ要素を読み解いておくほうが、もし別の場所に行ったとしても同じような気持ちを味わうために有効である。

こんなふうに感じるのは、僕が極端に飽きっぽい人間だからだ、ということでもある。一つのことについて、一日の中でまとまって集中することができない。長期的に見たらだらだらそれをずうっとやっている、というのは得意だ。

家、ということについても同じだ。毎日を過ごすところに何かしら変化がないと、僕はすぐにソワソワしてしまう。毎日新鮮な水を送り込んでいないと死んでしまう魚みたいだ。他の人に言わせれば、落ち着きがないということになるのだろう。それが僕のネイチャーだからしょうがない。とにかく、結論が見えていることは早く済ませ、また次の、別の偶有性を持ったものごとに一刻も早く取り組みたい。

こうして文章を書いていることも、偶有性を味方につける一つの作業である。僕自身も何が書かれていくのか分からずに書き始めている。ただ一つ意識しているのは、あ、今なら書けそうだな、という予感がした時に、感じたことをそのまま書く、ということである。書くプロセス自体に意味がある。書かれたもの自体が、その先どうにかなることは何も問題ではない。

この場所は、一日15分間は何かしら文章を書く、という、いわば方法的に書く場所としての役割がある。

「方法的に書く」というのは、僕の師匠だった加藤典洋という人が、よしもとばななさんが父である吉本隆明さんに「毎日とにかく短編を一つ書きなさい」と言われて実践していた方法だ、というような感じで紹介されたことを念頭に置いて言っている(詳細は違ったかもしれない)。

全てのプロセスについて、納得しきって万事済ませようと思うと、長い時間をかけて達成される物事というのは達成されない。理由は簡単で、始められないから。始められないことは蓄積されないから。

時間という外部的な要因で区切って、やらせてあげる、ということが大事だ。

今日はここで15分。


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