2024年6月13日木曜日

試行錯誤の錯誤の部分だ

 朝から在宅。展示に向けた絵の選定作業と、展示の構成を考える作業をする。紙を切って実物の15分の1スケールで配置を考える。最低限の装備でできるようにはするんだが、それでもお金は減っていく。でも、展示をいいものにしたい。

 お金なんて、お金持ちにちょっと貰ったら一発で解決しちゃう問題だ。ま、実際に誰かがホイッとくれる、みたいなことはまだないけど、原理上は。そこいくと、僕の絵の展示は僕の代わりにやってくれる人なんかいないので、そっちをやった方がいいのは明白である。いいんだ、まずは、お金なんか。時間をかけて楽しいことを試行錯誤することの方がはるかに大事だ。だが、しかし。あまり「最高のものにしよう」とこん詰めすぎてもいけない。自己をそんな細かく批判しすぎたら挫折する。素人は自分を責めちゃダメだ。最高のものにしたいなら、素人は、ちゃんと然るべき人にやってもらうか、意見を聞くかしないといけないんだよ、そもそも。だから最初はいいのだ、素人なりに、精一杯まずはやるんだよ。で、プロに少しずつ外注することをだんだん覚えればいい。まずは下手でいいから自分でやれ。その代わり、失敗したって自分をウジウジいじめるな。絵だって1,000枚描いたろう。それでようやくスタート地点に立てた感じあるだろう。それと同じ。全部、全部。長い目で見てやること。たかだか数年何かを頑張ったくらいで自分が何かいっぱしの何者かであるなんて思わないでよろしい。ただコケてコケてコケまくりながらヘラヘラ笑ってどんどん進め。自分の大好きなユーモアを貫き通せ。

 作業の途中で、公園に行ってジャグリングしておく。20分もしてない。でも、やるかやらないか、だったらやる方が断然マシなので、やる。やらないことには何も進まない。何かについて「考える」というけど、考える、というのは、とにかくそれを「やる」ってことだ。頭の中でイマジンするなんてのは、「考える」のうちには入らない。実際にアクションを起こさないことには何も進まない。厳しい意見じゃなくて、むしろシンプルで誰にでも公平な真理。これは展示のテーマでもある。けど、それをわざわざ言い立てることもないので、まぁこれについては黙っておこう。

 しかしまったく困っちゃうよ。展示で使う板を買ってきた。コーナンまで、カーシェア。とにかくお金がないんだけど、まぁやるべきことを優先してやる。お金がないからじっとしてる、ということ、僕にはできない。夜中に、一念発起して展示のビジュアルをバリエーション分けて何個も作る。あとは中岡さんに選んでもらおうかね。

2024年2月2日金曜日

はと、ねこ、少年

 6時起床。目覚ましは6:30だったが、鳴る前に起きる。公園についたのは6時半。ハトがホホーコーコー、と鳴き、公園に接している保育園の中で、黒猫と白猫がいる。まだ暗い。45分くらいから明るくなる。
 カスケードから始める。ボールが冷たい。なんとかならないか?少し高く投げる。落とす。これは一個練習だな、と思い、一個で背中のうしろ、首のうしろなど。それから少し5ボール。高いトスがちょっと楽になっている。ディアボロも15分だけ。トイプードルとポメラニアンが通った。1ディアボロが楽しい。小5くらいの少年が、サッカーボールを持って自転車に乗って練習しにきた。ともに練習する感じ、良い。お腹が痛くなってきたので7時5分に退散。30分はやるのがいい。

2024/02/01

2023年1月17日火曜日

落ち着きかたがわからない

 noteだと書きづらいことをこっちに書いたりしてみたりして。坂口さんの日記を久々に読み返していて、彼の「読者が4000人」という箇所を見つける。そうか、僕もその4000人のうちのひとりだけど、彼でもそれぐらいの数の想定が妥当なんだ。僕だって結局そのあたりを狙っていけばいいと思った。いや、その大きさを狙うというのではない。ただ、自分が把握できる数の読者、鑑賞者がいる、というイメージをとにかく持つということである。現時点で僕が書いたり描いたりするものには、20人ぐらいのアクチュアルな鑑賞者がいるような感覚がある。多分間違ってないと思う。これを、このイメージを保ったまま、さらに自分自身が面白いと思うことをとことん追求してみる、ということだ。まず第一に、鑑賞者としての自分自身がいる。その後に、自分と共振するような鑑賞者がいる。そういう順番である。そしてその絶対数は全然多くなくて、むしろ少なくていいから、その人たちを裏切らない、そこに存在していることを意識しつつ自分を裏切らない、という感覚、そこに関しては楽をしない、という感覚が大事だろうと思う。

 でもそれは、苦しんで、努力して、という話でもない。苦しんでいいものが作れるんだったら苦労はないのである。そうじゃなくて、具体的に作品、と呼びうる形にするための労力を惜しまない、その方向づけを誤らないよう、そこだけ慎重になる、ということである。

 今僕の手元にあって、作品になりそうなものって何があるだろうか。

  1. 『ジャグラーのぼうけん』二巻以降。
  2. PONTE BOOKSのシリーズ。(『投げないふたり2(仮)』など)
  3. ペン画のシリーズ、本にしてみたい。展示がしたい。
 本当にまとまりのないことばっかりしてるな、と思う。落ち着いたらいいのかもしれないが、僕にはそもそも「落ち着きかた」がわからない。

2023年1月14日土曜日

ホイ

  まだ何か書きたがっているので出してあげる。noteの方で、これは毎日書いているのだが、今日は特にばーっと文章を書いて、僕はこれを読み返したい気分になっている。これは僕の癖で、まぁこんなことを言うのも普通は恥ずかしいと思うんだが、まぁ言っちゃうんだが、僕はすぐに自分の書いた文章を読み返してしまう。自分が何を書いたのか知りたいのである。 でもそんなことしてる時間あったら、まだまだ先を書いた方がいいんじゃないの、と思う。なぜなら、追い求めているものは、常に自分の中にある からである。自分の書いたものも、娯楽として消費し始めたらもうすでに他者の考えになっている。それは自分の中にあるものではないのである。

 言いたいことなんて山ほどあるのである。だったら、それについて考える、と言うより、どんどん言いたいだけ言わせてあげればいいのである。僕は何か言いたいことがあるときというのは、すぐに人に会いたくなってしまう。でもそれを、何かこうして書いたり描いたりすることにうまく昇華していければいい。とにかくおしゃべりなのだ。

 どんどん出てくるものを、そのまま川の流れのようにドバドバ出していって、それ自体が何か相対として意味を持ち始めるようなのがいい。個々の意味にあまりこだわるのは、どこか違うような気がしている。言葉の使い分けをしたほうがいいような気がしている。

2022年11月25日金曜日

まさつはいやし

イギリスから来ているノービと、だいごさんと待ち合わせ、白楽から妙蓮寺のツアーをした。
恒例のサリサリカリーを食べる。パキスタンカレーだ。身の上話に夢中であんまりカレーの話はしない。
白楽の商店街を歩き、そのまま僕の家まで来てもらう、にゃんにゃん猫と戯れる。それから本屋・生活綴方を案内する。ノービは僕の書いた本を買ってくれた。
ノービは今回、僕の絵のデザインのTシャツを(勝手に)作って僕にくれた。とても嬉しい。本ぐらいあげてもよかったが、買ってもらうことに意味があるような気がした。
東京に移動し、駒場に『未来の原画』展を見に行く。東大のキャンパスには銀杏の実がたくさん落ちていて、匂いが漂っていた。先端技術研究をしているあのキャンパスには、行ったことはあって、でもよく見たことがなかったが、建物が非常に美しい。改めて感心する。
いい展示だった。以前展示を見に行ったことのある荒牧悠さんと会えたのが、非常に嬉しかった。会うと思っていなかった人に会う、って本当にいいものだね。

しばらく英語を話していなくて、いろいろ、ノービに言いたいことがパッと出てこなかった。僕は英語を文面で毎日触れているけれども、発話は全然していない。ジャグリングの映像ばっかり見ていて、ほとんど自分でジャグリングをしていないのと同じようなもの。もうちょっと運動としての英語、その他の外国語を日常的に取り入れなきゃな、と思った。と言っても、必要がないとなかなかそれも難しいのは知ってるんだけどね。それでも、いろいろな話をする。少し、気が楽になる。全然考え方が違うからだろう。そして、それもアリなんだ、と実感があるからだろう。僕は、人に会うことによって、そしてあった人の在り方を見せつけられることによって癒やされている。全然違う人と摩擦が起きることによって、癒やされるのだ。摩擦は、癒やしだ。

だいごさんともまた、すこし緊張感のあることをしたら癒やされるのかもしれない。

※※※

僕はいま「ジャグリングの世界」そのものに別に関心を感じていないんだけど、それを肯定してくれる人がいる、というのはなんとも心強いことである。

2022年11月24日木曜日

教えながら学んでいる

 今日は昨日と比べて特別書きたいということはないのだけど、一旦意識を解放する。10分間ぐらいかな。素振りはなんたって毎日、定量が大事である。やることが多岐に渡っていて、でもそれは悪いというのではないのではあるが、なんだか、まとまりがなくて嫌だな、という時もある。ざっとあげるだけで、翻訳を二人から定期的にもらっていて、文字起こしのバイトをもうかれこれ6年間ひとつの事務所からもらっていて、それに加えて最近は毎週逗子に行って中学生に英語や数学を教えていて、納得できるぐらいまで絵を描き、そして2月の台湾に向けてジャグリングのことを考えている。その合間にいろんなイベントが入ってくる。断ればいいんだけど、なんだか僕は、基本的にはイエスマンなので、どんどん予定を入れてしまう。それでいて、もう一冊本を書こうとしていて、その合間で、今まで溜まった原稿をまとめようとしている。外国語のメンテナンスだってしているのだが、でも、こうして書き上げてみると、大したことはない。じゃあ何が邪魔をしているのか、と思うが、きっとそれは迷い、である。迷いなく次から次へと、とりあえずやらないといけないとわかっていることをどんどんやっていれば、勝手に終わっていくのである。多分今の半分の時間でできる。今日だって、絵を書くのは夜にしようと思っていたけど、そんなことを考えながら、もうなんとなく筆をとってしまって、サラサラと描いたら、いつの間にか終わっていた。そういうものである。怖くなる前に飛び込んでしまう、ということが、たくさんの物事をやり切る秘訣である。この文章だって、ああ、今日は書かなくていいかな、と思いながら、もう画面を開いて、描き始めてしまうのである。本当は、今文字起こしをやっていて、今日の夜までに、ということだったので、一分でも早く終わらせたほうがそれはいいのだけど、でも、いや、まぁ、やり始めたほうがいいかも、と思って、パッと開いてしまった。このスピード感が大事なのである。自分が気づくよりも先に始めてしまう、ということである。

今日は二つのことがうまく行った。ひとつは、ジャグリングの演技について、少し先が見えたこと。本当は、全部全部新しい演技を持っていこうと思っていたのだが、それを諦めることにした。ただ、これから先のことをも考えつつ、これが終わりじゃなくて、これから続いていくんだ、というこれから毎日何をするのか、ということを考えて、発展の予感は、頭の片隅に置いたまま、自分が一番安心できるセットは何か、ということを考えていくのだ。それこそ、もう時間がない。体育館もとっているけど、現実的には、あと多分10回も行ったらもうそれで本番がくる。となると、なるべく新しいことは少なくして、堂々と見せられるものを鍛錬したほうがいい、と思うのである。もちろん新しいものが見せられたらそれはそれでいいけど、台湾に行って僕がジャグリングを見せる相手は、9割9分9厘が僕のことを知らない人である。自分の中での新しさ、というのは、ここでは価値を持たない、としておく。ただ、自分がイキイキとやれることが大事なので、少なくとも今回に限っては、今までのものにより丁寧に向き合う、ということにする。自分にとっての定番の演目を磨く機会だと思ってやっていく。でもその中で並行して、自分なりに見つめてみたいテーマ、で、演技を作ることもしていく。今日は技術的な練習を主にしていたのだが、やっぱり、アイデアは、技術が先行して生まれるものだと思った。結局僕が見せているのは技術なのである。

そして二つ目、いいことは、なんとなく英語を教えるときの流れができたこと。教科書通りにやればいいや、という結論に達した。今まで、自分なりに教材を見つけてきたり、なんだかいろいろしていたけど、もう、いいや、これで、と思った。でもこれは功を奏して、一冊の本に向き合ってやっていると、これからどれぐらいのことをやるのか、これまでどれぐらいのことをやってきたのか、ということが可視化されるので、多分僕も相手も取り組みやすいだろうなと思った。

これまでの量とこれからの量がはっきり可視化されているというのはいい。やる気になる。もちろんそれがオープンエンドな追求であることはわかっていながら、僕らはやっぱり有限の中を生きているので、一旦区切りをつくて、そこそこ上達した自分を目指して、まずは量を決めてやる、ということである。僕は教えながら学んでいる。

2022年11月23日水曜日

書くための文章と裏切られてもいい期待

 文章を書くという作業の中で、素振りにあたる訓練はなんだろうか、僕はそう考えて、それは、とにかく頭に浮かんでくる文章を、そのまま音のまま、保存するような気分で、こうやって移しとるということなんじゃないかと考えた。僕は自分の思考のスピードに追いつく、という経験を一日の中のどこかでしたがっているんだと思うのだ。だからこうして、ただ書くということを通して、どうにか、何か思念を形にするということをくりかえす。読まれるということが重要なのではなくて、ただ読まれる前の文章が存在する、というような、そういう時間が必要なのである。この文章は読まれる必要がない。それはちょうど、僕があー、とか、うー、とか、そういう、意味をその影に持たないような、言葉以前の呟きを漏らすことと同じで、ただそういう時間が必要なのだ、ということなのである。それは全体性のバランスの回復、ということでもある。つまり有意味なことを生産し続けなければいけないというプレッシャーの、その反対側にあることを、同じくらいの分量なすべきである、ということである。ぼくは今これをiPadにBluetoothのキーボードをつなぐことで行なっている。これはこれで適切な装備だとは思うのだが、同時に、本当は、手書きで何かを書いた方がいいような気もしている。それは、僕の中に、やっぱり「書く」という行為は、文字を、紙の上で引っ掻くというアクションを通して行う、より身体のストローク、圧迫、そういうものを通じて何かを現出させるという状態を通して何か実感を得たいという欲望があるからであろうと思う。時に僕は、量を求める。なんの意味もない、量を求める。それはただ歩きたい、ただ踊りたいただ歌いたいという欲望に似ている、というか、それらは全て同根であって、ただこの所在なさを埋めたいというそういう欲望である。どちらもある、ということが大事である。意味を求められる意識が先行した世界に僕らは普段生きていてそれは人との関係、という中でだけ効力を発揮することなのだがそれとは全く反対の世界にある、自分自身が何か中にあるものを出したがっているその気持ちをただ満たすために存在する行動がやはり僕には、僕らには、必要なのである。公開する、という手続きは、そのプロセスをスムーズにしてくれるきっかけにすぎない。

僕らにはお膳立てが必要だ、友達も必要だ、でもその友達、というのは、つまり、何か自分が感じている欲を、スムーズに外に表出させることができるというそういう意味においての、触媒として求められるものである。でも、日中の世界では、そこには意味が必要とされる。そういう制限の中で生まれるものには、より、一般性があるわけだが、一方で、個人の欲求とは離れている。離れている部分がある。僕は詩が読めない。それとも少し関係している。意味のつながりがなくても、文章を音として、音楽として楽しむことはできる。ちょうど歌がそうであるように。ただそこに、意識の片鱗を記録したものとして、普段とは違う言葉遣いの文章が用意されているというだけでいい。ただ、何かを、文章を書きたいということがあるのだ。

誰を書きたいか、ということ。誰を書きたいのか。何か、誰かを描きたい、というときがある。僕は、自分の中にいる誰かを書きたい、というときがある。それが絵になることもある。僕が絵にして描いている形、その形状は、僕の中にいる誰かである。でも誰かは、形を持っていないからそれに暫定的な形を与えてあげて、ただ、それが僕の中にいる誰かであるということを一旦の解答とするのである。自動筆記と何が違うか。自動筆記が何か僕はよく知らないから、何が違うかはわからない。でも、とにかく大事なのはそこに量があるということである。自分が生み出した量を前にして何かを感じたい、ということ。素振りには癒しがないといけない。意味を求められて生きている中で、意味がない行動を淡々と、でも、そこに量がある、ということにいかに癒しがあるか。僕はそれをよく考えないといけない。考えるというのは、頭の中にある、ということではない。むしろ、頭の中から外に出てくるということだ。思念というものがどういう形をしているのか僕は知っているか?知らない。見たことがない。イデア、というものがあったとして、それがどういう形をしているのかは、やっぱりかりそめの姿を通してしか知ることができない。僕が生み出すものは、ただ、予測変換をどんどん繋げていったものでもいいのか。よくないだろう。それはなぜか。そこには、自分の頭の中にあるものが一切入っていないからだ。僕はただ量を生み出したい、というのではないのだ。僕は、いつでも頭の中に何かを考えながら生きているんだぞ、というその実感を、なんでもいいから具体的に目に見える、指で触れる耳で聞ける舌で味わえる、そういう具体的なものとして知りたいのだ。あるいはこれは誰しもがわかっていることであって、古来より人間がずっと、歴史の中で体現しようとしてきたことであって、人類の歴史から見たら、何も重要なものではないことであると同時に、個人としての生き方の中では、非常に重要な役割を持っているとも思う。混沌を現出させたいわけではないのだ。むしろ秩序を望んでいる。自分が考えていることが綺麗な形に、整った形になって外に出てくることを望んでいる。でも、そうしようと思うと、考えが外にでてくるそのコースをひん曲げたり途中で止めたりして、とにかく面倒なプロセスを通さないと、日常生活で汎用性のある「意味のあること」として出すことができない、ということを知ってるはずである。だから、ただこの、頭の中にある形を、なんとかしてそのまま捉えようとして、こうして推敲をしない生のままの文章という形にしている。この場合の綺麗さ、というのは、思念が頭に浮かんでから、キーボードに指が触れ、それを押しそしてそれが電気的に画面に伝わり、文字となってディスプレイに映される、という時間のずれを通して実現されるものである。この時間のずれ、ということが、1番大事であると同時に、致命的な、想像の躍動感をうしなわせる恐ろしい存在でもある。自分が思った通りに何かが作れるということは、ないのであるが、その思い通り、ということの定義をどう捉えるか、そこには深い海がある。だからやっぱり、全部ある、っていうのが大事だ。こういうふうに、一見したら論理なんかなさそうで、つながりなんかよくわからなくて、人に読ませる気もなさそうな文章が大量に存在している、一方でとても整ったもの、それは、ある意識の中での意味内容の発生からその具現化までに多くの編集を経て、整っているものも、大量にあるという、そのどちらもあることによって、初めて自分にとっての、充実感があるのではないかという感じがある。パンにする以前の生地のような状態も見てみたい、そういうふうに思ってこの文章を書いたんだ、と今の僕には納得させられる。作品になる前の、原料、鉄として精錬される前の鉄、そういうものを、見ておくこと自体が癒しをもたらすのである。へえ、こういうものでできているんだ、って思うからね。あとは、素振りがやりたいんである。運動としての書くこと、というのはつまりこういうことだ。行為としてただ書くことがそこに存在するというのはこういうことだ。「書く」という一つの単語の裏には、たくさんの他の身体的動作が混じっている、ということを常に意識する。そこには、まず紙を用意すること、パソコンを開くこと、場所を選ぶこと、文章が書き出されたのちに、それをどのタイミングで推敲するのかということ、その出来上がった何かを、発表するのか、本にするのか、本にするなら、どの程度気持ちを入れた本にするのか、とにかくそこにたくさんの、「思念を文字にする」ということ以外のアクションが入っている。つまらないだろう、意味ばかりあると、疲れるだろう、意味ばかりあると。僕はそれを自分に対して言ってあげたくて、こんな文章を書いている。自分がしたいことに夢中になるっていうのはつまりこういうことで、全然人から見たら何を言っているのかわからなくたっていいじゃないか、というようなことを、とにかく自分でも呆れるぐらいの量行うこということである。文字起こしも残っていて、明日も早起きしたいし、こんなことをことをしている場合じゃな、いというそういうことも、それも意味に縛られている、というふうに解釈する。やるべきことなんて本当はないのに、やるべきことがあると思い込んだ方が楽になるから、生活の上でそういうふうにしているだけで、本当はもっと向き合うべき感情があり景色があり、感触があり、だって、猫がどういう毛の生え方をしているか、どういう手触りを毛をしているのか、それだけだって、いっぱい味わいたいじゃないか、だのに明日のスケジュールのことを心配しているのも、なんか、全然違うじゃないか。ネットの海に漂っているいいものを見ている場合じゃないじゃないか。見ているんじゃない感じるんだ。感じるのである。感じるためには、ただ書くことだけが必要なこともあるしただ描くことだけが必要なこともある。「見られる」と「全然見られない」、の中間ぐらいに、「意味がすっきりしている」と「意味が全然わからない」の間に、このような素振りの文章があるということが1番バランスがいいかもしれない。少しは期待をしているということだろう。でも、それは、裏切られてもいい期待なのである。

2022年11月11日金曜日

台湾まで 2

 現在昼の二時。今日は、朝に少しボールを投げただけである。投げているだけまだマシで、僕はそんなにジャグリングをする人間ではない。それを受け入れることがむしろ、スタート地点である。「だから諦める」っていうのではなくて、むしろそれを利点にしていくイメージ。ジャグリングにそこまで入れ込んでいないからこそ、の自分に、勘違いに近い自信を持っちゃうイメージ。

 昨日は昼に体育館で自主練。急にたくさん練習し始めたからか、割と派手に肩を痛める。ポイみたいにぐるぐる回していたらピキっときた。その後、少し「本屋の二階」で仕事。下で印刷作業をしていたAさん来た。降りて、少しお茶しながら話。さっと話して、さっとどっか行くのがいい。その後野毛の体育館に移動、YDCへ。以前メンバーとしてよくYDCに来ていたティム(ドイツ人)が遊びにきていたのだ。でも参加人数少なく、ちょっとティムは寂しかったかも。マイケさんという彼女も一緒に来ていた。ティムは日本語話せるが、マイケはドイツ語英語のみで、僕は久々に英語を話す。英語を話すのも、久しぶり。俺は台湾に行ったら中国語で話したい。演技以外にも、ちょっと中国語を真面目にやりたいな、と思っていて、でもそれはずっとただの希望のままで終わっていて、本を借りてきたり、何だかんだしているんだけど、全然それを実行する時間を持っておらず、まぁ、でもあと3ヶ月しかない中で、中国語に時間的なリソースを割くぐらいなら、それをジャグリングの練習に当てた方がいいじゃないか、とも思うし、一方で、ジャグリングよりも語学をできる方が、なんかパフォーマーとして面白くなる可能性、あるんじゃないか、みたいなことも頭の片隅にある。でもそれが中途半端でもしょうがないんで、まぁどうしようかなぁ、みたいな感じである。

 演技について、体育館だけではなくて、外でも考える、というのが次なる目標である。体育館以外で、よく練って、試行錯誤して、それを体育館で試す時間、なるべく体を動かしている、という状態でありたい。こんなのは基本的なことなんだけど、でも、「基本的なことができる」ということ以外に、手を伸ばす方法ってないなとも思う。

2022年11月10日木曜日

台湾まで 1

 台湾で2月にパフォーマンスをする予定なのだが、どうも不安で不安で仕方がない。どうもこの原因は、不安の中身がなんなのか、自分でも具体的に理解できていないからだ。そこで、何か作品に昇華するようなつもりで、日記のような形で毎日、その不安について書いてみる。もし途中で不安でなくなったら、それはそれでいいかな。今度は、「人前で演技をする」ということについて、考えるような内容になっていくかもしれない。あるいは、こんなことに時間を割くのは馬鹿馬鹿しいと考えて、書くのをやめてしまうのかもしれない。とにかく毎日何かを書いて、意識にのぼらせればそれで十分。少し編集して、それをずっと休んでいたメールマガジンの内容にしてもいいかも。僕はすぐ突発的にこういうことを始めるのだが、まぁ、それがいいと思ってやっているんだから仕方がない。

 まずは経緯について。新型コロナウイルスが流行り出すまで、僕は一年に5、6回は海外に出て、ジャグリング関係のイベントに出ていた。ところが、2019年の8月にイギリスに行ったのを最後に、一度も海外に出ていない。そこで、だいぶ状況も落ち着いてきた2022年の夏に、そろそろ海外に行きたいなぁ、と思い出した。とりあえず、ビデオでもネットに載せて、ぼちぼち宣伝というか、僕はジャグリングをしていますよ、と知らせてみようと思った。そうしたら、それを実行したその日に、台湾でフェスティバルを主催している人から「来年台湾で演技したいか」と聞かれたのである。そのビデオ自体は、全然演技でもなんでもなくて、ちょっとした小ネタのようなものだったのだけど、それだけで、誘ってくれたのである。運がいいなぁ、と思ったが、同時に、いいのだろうか、という思いがあった。主催の人が生で僕の演技を見たのは、10年前である。それで呼ぶんだから、大した度胸である。そんなに重要な役どころでもないのだろう、と察せられるが(あとは、僕が暇そうだし、二週間スケジュールを開けないといけなくても、呼んだら来るんじゃないかという打算もあったのだろう)。それでも、わざわざ台湾に呼び寄せるのだから、最低限いいものを見せたいなと僕は思うわけである。

 先週から、近所の地区センターの体育館を週2、3回のペースで借りている。そこで練習。一回は3-6時間。だが、今のところあんまり演技作りは進んでいなくて、リハビリのような感じで終わってしまう。これじゃああかんな、と思って、体育館にいる時以外にもジャグリングのことを考えようとするんだけど、あんまりうまくいかない。そもそも、今手元にある仕事が多すぎるような気もする。毎週、逗子まで行って英語を教えて、数人の人から不定期にアルバイト的に文字起こしや翻訳の仕事をもらい、自分の本を書いたり、毎日絵を描いたり漫画を描いたりしている。どれも本気でやりたいな、と思うのである。じゃあやることを増やさなければいいのだが、やりたいと今思ったことを我慢する、ということがどうも不健康な気がして、ついやってしまうのだから仕方ない。

 今、台湾に出発するまでの日数を数えてみたら、98日しかなかった。3ヶ月とちょっとである。なるべく余裕を持ってやりたいから、今までやってきた演技を使い回すかなぁ、という気持ちでいるが、何か付け足してもいいなぁ、と思う。

 観客と触れ合うところで、何か変えてもいいかもしれない。

2022年11月7日月曜日

全部やる日記 19 

 あるツイートを見ていて、僕が本当にやりたいことってなんだろう、って考えたのだけど、将来というスパンでのビジョンって全然ないな。「将来どうなりたい」って、ない。先週、新しく知り合った人に「どうなりたいんですか」と聞かれたけど、その時も、全然思い浮かばなかった。見ているのは、ちょっと先の未来だけである。今日の夕飯まで。
 けど今考えているよりも、もう少し先を見据えてみるのも、ゲームとしてちょっと面白いかも、と思った。何か目標を定めてみる。でもそれは、あんまり具体的な目標だとちょっといかんかな、と思う。将来僕は、どういう気持ちでありたいか。どういうふうに充実を感じていたいか。それぐらいかな。

2022年11月6日日曜日

全部やる日記 18 身体がやりたいことと、そのさき

 『ジャグラーのぼうけん Vol.2(仮)』の原稿を進めているが、少し詰まりがちである。「いままさに書きたいことを書いていれば一切止まることがない」という単純な事実を思って、こちらに好きに書いてみる。
 別にパソコンの中のメモ帳でもいいんだけど、なんとなく、公開して誰かに見られる前提があった方がより楽しいから、そうしてみる。
 僕は、頭に浮かんできたことを文字にしたいだけだ。と言ってもそれは単純なことでもなくて、頭に音声言語として浮かんだことをそのまま文章にしている、というのでもないのだ。こうして文字にすることで、自分が何を考えているのか、初めてわかる、そしてそれをインスピレーションにして、再び違うことを考える、という行程が含まれている。
 おしゃべりをしているようなものなんだけど、でもちょっと違う。
 まず出力スピードが違う。そのことによって、思考が変性している。書くときと喋る時では、その速度の違いから、生まれるものも自ずと変わる。

※※※

 ある提出すべき文章を書くのに行き詰まった時、それが「書きたいことが全然書けていない」という不満に変換される前に、なにかで一旦文章を書く筋肉をほぐす、という「文字書き体操」理論を提唱したい。「何かをしたい」と思うのは、本当にその「動作を行いたい」だけである、ということを心に留めたい。
 たとえば僕が「ジャグリングをしたい」と思うとき、それは、本当にその「ジャグリングの動作をしたい」ということである。別に、「優れたジャグリングを含む演技を作り、それを大きな舞台で発表し、その上でそれに関わる人たちに満足感を感じてもらいたい」までは含んでいない。ただ「ボールを投げたい」というピュアな欲望でしかない。
 「ジャグリングそのもの」と、「ジャグリングそのものが引き起こすさらに先の事態」とでは、分けて考える必要がある。
 理想は、まずはその動作の中に浸っていたい、という欲望を満たし、そこから何かが抽出される、という順序だ。その方が遥かに楽で、しかも気持ちがいい。生まれてくる文章の質は高いとは限らないが、少なくとも何かは生まれてくる。「質より量」はこのようにして達成されるのだ。
 でも、ちょっとそれがいい感じの成果物になったら嬉しいから、その時点で編集、という概念が持ち込まれてきて、その時点でそれは、「書きたい」という欲望とは全く別のものに変質していることに注意しよう。
 「文章を書きたい」という欲望は「キャッチボールがしたい」と同程度の、低次の欲求なのだと理解しよう(劣っているということではない、ただ低次である、物事が進む段階として、下層にある、fundamentalなものである、ということだ)。

 でもそう思えば、僕は絵を描くことに関してはそれを実行できている。絵を描きたいのは、ただ絵を描きたいからだ。それ以上の欲求とは関係がない。もしそれを展示したい、とかそういうふうに思うとしたら(ちょっと思ってる)それは「絵を描きたい」という欲望とは全く別の次元にある行動である。そういう意味では、絵を展示するなら、「絵を描く」というその、身体の動作とは分けて考える必要がある。

 気が済むまでその身体の動作を行う、ということを軸に生活を組み立てたいな。
 

2022年10月23日日曜日

全部やる日記 17 大阪のからだ

 一昨日から大阪にいる。北加賀屋で開かれているKITAKAGAYA FLEAというマーケットイベントに生活綴方が出展している。僕はそこで売り子をしている。
 僕はイベントでものを売るのに立っているのがすごく好きだ。それは、初めて会う人と喋るのが好きだからだ。初めて会って10分間の会話、というのが好きなのだ。その後にずっと仲良くなる人も時々はいるし、でも大半の人は、その後別に会いもしないし名前も何も忘れるのだけど、それでよくて、それがいい。
 これはパフォーマンスをする時と一緒だ。パフォーマンスを見せる相手の9割9分は、見せるものを見せ終わったらもう会わない。その刹那にだけ見せる自分の姿というのがあって、見る方もそれを了解して見ていて、それがゆえに成り立っている状態がある。

 お客さんとものすごく楽しく会話できたけど本は売れない、ということだってあるし、特にそんなに盛り上がる話はしていないのに3冊売れる、ということもある。話している相手が、そもそもなにか買いたいかも、と思っていれば、あとはちょっと背中が押されれば買う。それが些細なきっかけでも。逆に、なんとなく店を見て回りたいだけで、お金の手持ちもない人であれば、どんなに話が盛り上がっても、やっぱり買わない。
 こういうマーケットイベントとか、新しいものを求めにくる時に購買において何より大事なのは「体験」の方であって、「店員と話すこと」「貨幣を媒介にしてものがやりとりされるときの快感」の比重が大きい。「モノが欲しい」ということは、基本的にあんまりないんじゃないかという気がする。もちろん結果的にいいものには巡り合うし、中には目当てのものがあるケースだってあるけど(安達茉莉子さんの本なんかそうだ、これ、欲しかったんです、という人をよく見る)基本的には偶然性を楽しみに来ている。
 「偶然性を楽しむ」というのは日常の中にどう楽しみを入れるか、ということについて考える上でのキーワードだ。なんかつまらないなぁ、と思っているときは、「過ごしている時間の中に、偶然性が欠如しているんだ」とおもっていい。「自分が予期していなかった面白いことが起きる」ことと「大体予測がつくルーティーン」が、自分がちょうどいいと思えるバランスで交互にあるといい。これは旅の本質を理解するためのカギでもある。旅をしているときの興奮は、これから何が起こるだろうか、という興奮である。場所の移動はそれを感じやすい。

 大阪に着いた初日に、まず僕は岡本太郎のデザインした太陽の塔を見に行った。これがとても良かった。
 よく晴れていて、その青空の下に巨大な塔が屹立していて、ふもとの芝生をバックに、遠足に来た赤帽の小学生たちが先生の周りに集まっていた。気持ちのいい風景だった。太陽の塔の中には「生命の樹」という展示があって、万博当時の様子が再現されている。なんだかディズニーランドのアトラクションのようであった。1970年には、この中にエスカレーターがあったのだそうだ。
 横浜にいると僕は最近少し憂鬱で、それは横浜が悪い、というのではなく僕の半径10mの環境に何か悪いものがある、ということなのだろうが、僕は全然来たことのない土地にいる間、とにかく、自分自身と対話することなく、ただ環境と対話していて、その言葉にならない感想の中に自分がいる気がしている。
 自分自身と向き合っているうちは、自分なんか見えない、だから鬱っぽくなる。

 自分のことを考えていない時間が欲しいんだ。自分のことを考えていない、ということが、いちばん、自分を生きている、ということだ。

 昨日の北加賀屋のイベントの後、北に40分ほど電車で移動してもう一つのイベントに行った。カレーを食べつつ、渡邉尚さんの倒立&ジャグリング、ヒペさんのマイム(というかなんというか)、板倉さんによる弾き語りを鑑賞する会に行った。会場は鶴橋駅から徒歩13分ほどの、住宅街の奥の方にある二階建ての家のような作りのカレー屋さんだった。駅から走った。
 板倉さんの歌声とピアノと佇まいが良くて、ヒペさんのギャグにすごく勇気をもらって、尚さんのジャグリングを見るのも久しぶりで、自在に動く身体を見ていたらなんだかこちらの身体が軽くなった。じつに不思議な感じがした。一日中駆け回って僕は相当に疲れていたはずなのに、これからなんでもできそうな気がした。
 すなずりのカレーも最高に美味しかった。

2022年10月20日木曜日

全部やる日記 16 「いいのかなぁ」と言いながら

 明日から大阪に行く。今夜の夜行で出発するから、あと数時間したらバスに乗る。
 大阪に行くべきか否か、ギリギリまで迷った。結局、行くことを決め、チケットと宿を全部押さえた。二泊四日の旅だ。
 どうせ決めるのなら早い方がいいんで、決断にかかる時間を速くしたい。その空いた時間で、さっさとやりたいことをどんどん進めたい。まるでマシーンみたいに思い浮かんだことをせっせとやりたい。でも僕には叶わぬ目標なのかもしれない。決めかねている気分をなんとかしようと思って、Sに3時間電話をしながら、ほとんど泣いていた。
 大阪では、行くべきメインのイベントがふたつある。
 ひとつは、「キタカガヤフリー」である。北加賀屋という地区にある古い建物を利用したアート施設のようなところで行われるマーケットイベントだ。ここで、僕が通っている本屋・生活綴方も出店する。だからなんとなく行こうかなと思った。
 もうひとつは、友人の渡邉尚さんが主催するイベント「弾き語りとパフォーマンスとカレーの会」である。キタカガヤフリーとちょうど同日開催だったので、こりゃいいや、と思って、この2つが重なったが故に大阪に行くことにした。
 不安も抱えている。大阪なんかに行っていていいのか。横浜でじっとしながら、仕事をたくさんした方がいいんじゃないか。僕はどうも、選択肢がありすぎる状況が苦手だ。「最適解ではない解答」を選んでしまう確率が高いような気がするからだ。
 もっと、猫ぐらい軽やかでいたい。

 先週末は、3日間、岩手県に行っていた。なんとなく移住するイメージを持ってみるために、アパートの内見もした。安くて立地のいい物件もあって、面白そうだなぁと思った。
 三陸の方にも足を伸ばしてみた。震災後、三陸は初訪問だった。陸前高田には、メモリアルセンターのような施設ができていた。道の駅も併設された、雰囲気の明るい施設である。しかし、その施設の周りを取り囲む、通常では見ることのない広さの人工的な平地が、とても美しく、また恐ろしかった。
 その平地を5分ほどまっすぐに歩き階段を登ると、防波堤の上から海を見下ろすことができる。海はとても静かで、綺麗だった。
 岩手に暮らしたら、それはそれで楽しいんだろうなぁ、とも思うし、いや、これは慎重に検討したほうがいい、とも思うし、両方である。いつだって、決断をするときは小さな決断も大きな決断も、結局「不安なまま」行うしかない。これが僕にはすごくこわい。全然うまくいく確証がないのに簡単には後に引けない選択肢を選ぶ、ということが僕にはひどく難しいことに感じられる。

※※※
 ここまでの文章と全然関係ないが、「愛」を結局「性愛」の形でしか了解しようとしないから、自分のことについても、他の人のことを考えても、苦しむのではないか。もっと、例えば「ただハグする」とかだけでとても豊かになると思うんである。僕はこれをもっと実行しないといけない気がしている。「好きの予感」と「性行為」のその底と天井の、間にある部分をもっと深く研究しないといけないんじゃないか。その間をちゃんと自分の中に取り込むことが、平穏に、かつ豊かに過ごすコツなんじゃないか、とさえ思う。「寂しい」という感情に与える栄養素を、もっともっとふくよかな、温かい、数多い選択肢から選ぶものにしたい。
 僕にはやっぱりこうしてなんでも書く場所か必要だ。

2022年10月11日火曜日

全部やる日記 15 どうしようもなくなるための自転車

 今日は一日、自転車で行動している。バイクよりも寄り道がしやすくて気分がいい。バイクで風を切って走るのは大好きなのだが、時速60kmで走っていると、余計なことを考えている暇がない。気を抜いたらバーンと車にぶつかる(まだそういう経験はしていないけど)。気が散りやすい僕にとってバイクはあぶない乗り物でもある。
 事故にならないよう、バイクに乗っている間の僕は、気を張りっぱなしだ。周囲のちょっとした気になることへの興味も、敢えて閉じるようにしている。だからバイクに乗っている時の僕は、オープンエアで颯爽と街を楽しんでいるようでいて、実はほとんどの物事を見落としている。

 自転車で1時間弱も走ると、とても遠くに来た感じがする。実際に僕がいるのは、いつも通っているカフェだ。バイクで来れば15分もかからないところ。でも受ける印象が全く違う。何かを成し遂げたのだ、という満足感と共にコーヒーをすすることになる。また、帰る時にも少し苦労して帰らないといけない、という予感があって、それがますます、今いる場所を特別に感じさせる。
 これは僕が「旅」に求めている感覚そのものだ。遠くに来てしまっていて、しかも、帰るのには時間と労力がかかる。「日常と離れてしまった」という諦観だ。僕は心配性だから、逆に旅に出たがるんじゃないかと思う。日常の些事にいちいち不安を感じているから、いっそそれに対して「僕にはどうしようもない」状態を作り出したいのじゃないか、と思う。

2022年10月10日月曜日

全部やる日記 14

 演じることについて 1

 2月に台湾で開かれるサーカスフェスティバルに招待されている。なんで僕なんか呼んだんだろう、と思う部分もあるし、いや、やってやろう、と思う部分もある。なんにせよ、不安だ。不安があるから、何か積み重ねている実感がないと落ち込んでしまう。やる気があって依頼を受けているんだけど、自分が舞台に立つ人間であるという事実が遠く感じられている。最後に舞台に立ったのは3年前だ。

 今日は少し研究をしていた。JJFの配信を見たり、他の動画を見てみたり、文章を書いて考えたりする。でも、お客さんの前で何かを演じる、という行為を通してしか、お客さんに何かを見せる技術は磨かれないんじゃないか、という気もしている。だから、自信がなくなっちゃうのだ。そんな経験、これから数ヶ月でそうできるもんじゃないよと。

 でも一方で、いや、これはむしろ、生活の問題なのではないか、という気もしている。

 もっと根本的に考えてみよう。僕はお客さんの前に立って何がしたいんだろう。何か、いい時間を過ごしてほしい、というふうに思っているんじゃなかろうか。人と人としての、ある種の対話をしたいと思っているんじゃなかろうか。

https://note.com/jugglernao/n/ned2f696be393

 2年と少し前、僕は大吾さんと、公園に行って道具を作った。自然の中で道具を作ることが「デトックスだ」と大吾さんが言う。これを、僕は今改めて、いいなと思った。

 ジャグリングの道具を作るという行為は、ジャグリングと関係のある行動だけど、それがもたらしている癒しは、ジャグリングそのものに依るのではない。ジャグリングを介して、人が自然の中で触れ合っている、そういう感覚である。

 その感覚を、より磨くことはできないか、そんなことを考えている。僕はそんな演技をできたらなぁ、と思う。「五感に常に何か不規則な入力がある」ような演技。「演技」と言うからいけないんだろうか。技、というよりも、僕は僕がいることによって、その空間がどこか明るいものになったな、面白いものになったな、とそういう感覚を感じたい、とどのつまりはそれだけなのである。それをより洗練させてやる、というただそれだけのことなのかもしれない。

 ただそれだけ、ではあるけど、一生追い求める課題だ、とも思う。

 ジャグリングから一段降りて、「自分が人に普段見せる姿」について考えている。

※※※

 2022/10/10

 今日は久々に、以前70日間連続で通っていたむさしの森珈琲にきた。よーし、文章を書くぞ、と言うつもりできたのだが、結局動画をみていた。文章はまた、帰ってから、4000字を頑張って書こうと思う。

 やっぱり僕は、方法的に書く、ということをしないといけない。書きたいことはいっぱいあるんだけど、「上手く書けないこと」を恐れて全然書けないでいるのだ。

 絵は、別に無茶苦茶上手くはないけど、毎日書けている。それはやはり、ハガキ大に一日一枚、と定量を決めているからである。文章でもそれをしなくちゃな、と思っている。

2022年10月4日火曜日

全部やる日記 13

 昨日は誕生日だったが、特別なことをする、というよりは、少し遠くまで行くか、ぐらいの気分で、相模原の方にある女子美術大学に、柚木沙弥郎さんの展示を見に行った。いいものだった。駅から遠く離れ、バスで30分ぐらいかかる山の上にあった。通うの大変だろうな、あの大学。
※※※
 久しぶりにイタリアに留学をしていた頃の写真を見た。
 Facebookで「誕生日おめでとう」とコメントをくれた友達のプロフィールを見に行ったら、数枚写真を戻っただけで2011年に辿り着いた。ベルギー出身のおじいさんロブが教室で撮った集合写真だ。僕もよく知っている、シエナ外国人大学の教室である。ロブはにっこり笑って写真に映っている。ロブの周りを囲むのは全員女性で、20人ぐらいいる。ブラジルから来た人、ドイツから来た人、中国から来た人、いろいろな国籍の人がいる。
 僕自身も、周りにいろいろな国からきた老若男女がいる環境に身を置いていた。教室の匂いだって思い出せる。休憩時間によく飲んでいたコーヒーの味だってありありと思い出せる。自動販売機で1ユーロのコーヒー。プラスチックの容器に入って、プラスチックの小さなマドラーが付いている。少し化学的な味がする。

 初めてシエナという町に着いて、何があるのか確かめに行こう、と言って友達と夜中に寮を出てぶらぶらした。国立のワイン醸造所まで歩いて、そこを取り囲む城壁に座って、パーティを眺めた。
 台湾から来たリャンウェイが帰る日には、一緒に寒い寒いと言いながら、城壁の上をぐるっと歩きつつ、ビールを飲んで過ごした。
 全てが新しかった。出会うものひとつひとつに喜んでいた。人と仲良くなったり、喧嘩したりした。
 秋らしいスッキリした晴れの気候が、ヨーロッパで過ごした記憶をはっきりくっきりと思い出させる。シエナは、多少暑い日でも湿度が低いから過ごしやすかった。洗濯物なんか、すぐ乾いちゃったな。
 僕がイタリアで暮らしていたのは19歳だった。多感な時期だったから、あの留学はこんなにも嬉しいものとして思い出されるんだろうか。あれぐらいの年齢でなかったら、鮮烈な喜びは味わえないものだろうか。僕は今でもああいう気分になれるものだろうか。

 僕は希望を抱いている。その気になったら、今でもああいう懐かしい感じを味わうことができるんだろう、と思っている。
 ただ自発性が必要だ。20歳になるぐらいまでは、自分が動かなくても、勝手に、幼稚園、小学校、中学校、(ある人は)高校、大学と、多くの人が進むものとして、とりあえずのステージが用意されている。
 今は、もっと自由だ。自由だから何もしなければ何も動かない。
 
 別に31歳になったから何か一念発起するわけじゃないんだけど、たまたま写真を見ていてそういうことを思った。

2022年10月2日日曜日

全部やる日記 12

 あまり毎日の記憶がはっきりしていなくて、特に書くこともないかなと思うのだけど、書くこともない、と思っている気分の中の、本当にごく小さな、例えばもらった葡萄を食べている時に皮についていたゴミの感じとか、そういうものに時間の経過を感じ取る。それが、まぎれもなく「実際に存在した過去の時間」を象徴しているように感じられるからだ。
 僕は今、最高にやる気がない状態が続いている。惰性のようなインプットしか身体が受け付けない状態になっている。あんまりいろいろなことに興味が湧かない。やらなければいけないこともたくさんあるけど、それに向かおうと思うと、虚脱感がある。寝不足かもしれない。運動不足かもしれない。住環境の悪さかもしれない。何か、自分で小さな一歩一歩を積み上げて大きなことをしよう、という気力が湧かない。

※※※

2022/10/02

 今日は、8時ごろに一度起きたものの、また寝て、10時ごろ起きる。パン屋まで歩く。コンビニで買うドーナツでもよかったのだが、なんとなく、ヨーロッパ的な朝を迎えたくて、徒歩4分のところにあるパン屋で、パンオショコラを買う。ここのパンは美味しい。食べながらぐるっと辺りを一周歩いて、石堂書店で少し立ち話をしてから、(アキくんがきていた)また家に戻る。何をしていたんだろうか。本を読んでいたような気がする。やらなければいけない仕事があるのはわかっていたが、そして普段なら、まぁやるか、とやることができるんだけど、なんだか今日はできなかった。
 僕は休み方を覚えたほうがいいのかもしれない。身体と脳の休め方がいまいちよくわからない。昼に本屋の二階に行って、なんとか今日までの文字起こしを終えるものの、あまりに眠すぎたのでもう一度家に帰る。ぽんちゃんがトコトコと上から降りてきて、ベッドの脇に座って餌をくれないか、という表情でこちらを見ていた。僕は「ぽんちゃん」と呼んで、手を差し出して、するとぽんちゃんは、机の脚に頭を擦り付けながらこちらに歩いてきて、手の匂いを嗅いで、スリッと小さな頭を指先にこすりつけてきた。
 2時間ほど寝た。もう3時半になっていて、あーあー、という気分だが、寝たおかげで多少頭はスッキリしている。もう一度本屋の二階へ。昨日今日明日、と、生活綴方ではイベントが重なっていて、それを目当てにやってくるお客さんで賑わっている。
 結局ほとんど仕事らしい仕事をしないまま1日が終わる。
 銭湯には行った。でも、やっぱり少し、いつもみたいにゆっくり湯船に浸かることはできなかったような気がした。

2022年9月29日木曜日

全部やる日記 11

 僕はどうにも、いつも何かを焦っている、という感覚が拭えなくて、これはでも、原因もはっきりしていて、つまり何かを生み出したい、という焦りなのである。そのくせ、怠けること、というか、今やりたいと思ったことをすぐに実行に移すことが大好きなので、持続性のあるアクションからしか生まれないものというのを生み出すことができなくて、何かを継続して修練して、ちゃんとみんなから認められ、お金になり、楽しそうにしている他の人を見ると余計に焦る、という構造なのである。僕は自分の中で起きているこの構造自体に気づいているんだけど、でもそれをうまい向きに方向づけてやることができずにいるのである。
 僕は今、いつもの桜木町のスターバックスに来て、文字起こしを延々やっている。もちろん断ることだってできるんだけど、でも僕はなんとなく、来た仕事は全部受けるのが好きなのだ。それに、これを断ったところで、他にお金を稼ぐ道を今のところ持ち合わせているわけでもないし、終われば達成感があるのでやっている。配達仕事は、際限がない気がして、(ま、早い話飽きて)配達車両を自転車に切り替え、時々運動がてらやるぐらいでいいや、と思っている。自転車に切り替えて一週間経つが、一回もやっていない。
 とにかく、俺は全然本質的なことを進められていないなぁ、という焦りがある。これが焦りであるうちはいいんだけど、段々とこれが落ち込みに変化していくこともまた僕は知っていて、だからそうなる前に、何か、前に進むことでこれを上書きしないといけない。
 さて、ここで僕がぶつかっている難しさとは何か。この「文章を書きながら何かを探る」という作業も、いわば現実逃避なんだけど、でもそれはただ画面を見て、スクロールしてどうでもいい動物の動画とかよくわかんない芸人の動画とかを見てぼーっとしているよりは幾分マシか、ぐらいに思って、とりあえずやってみる。
 僕は、何かハッと目が覚めるような発見をいつでもしていたいと思っている。それは、外部の世界に見つけるというよりは、今までに行ったことがないようなところに行きたい、という欲ではあるものの、何か自分の内部から出てきたものに「なんてものが出てきたんだろう、すごいな」とびっくりしたい、ということである。そのためには、自分がしていることに、いつだって量と、質が伴っていないといけないんだけど、どちらが先立つか、と言えば量であろう。だから、最近少し停滞気味だけど、僕は毎日のように絵を描いているわけである。さっき、いつも絵を描くためのハガキ大のケント紙を入れている箱を見たら、かなり満杯に近くなっていた。思えば、休止していた期間はあるが、ほぼ二年間、毎日のように絵を描いている。だから、そりゃあいっぱいになるはずなのだ。数えてないけど、500枚以上にはなっただろう。
 でも、だ。僕はこれによって、何かが進歩していると思えない。本気でやる人はこの100倍以上やっているだろう。
 僕はどうしたら進歩をするのか。絵の教室に行ったらいいのか、デッサンのワークショップでも受けたらいいのか。
 もちろん、すでに確固たる技術を持った人に習いにいけば、そりゃあ技術は上がるんだろうけど、僕は何か、それは結局「きっかけづくり」に過ぎなくて、自分自身が納得するような絵を描くには、やっぱり最終的には自分が部屋にこもって、絵を描くしかないじゃないか、と思っている。だから、だったら最初っから「人に習う」という工程をすっ飛ばして、他人のきっかけ待ちをせずに、自分でバシバシ見つけたいものを見つけて行ったらいいんじゃないか、と思うんだけど、でも、それも難しいのだ。
 なんで難しいか、それは、怖いからだ。何度も書いていることだけど、僕は、明らかに「これをやらないとダメだ」と論理的に頭でわかることがあっても、それを始めることを躊躇してしまうクセがある。それはなぜかといえば、やるべきことの量があまりに膨大であることに気がついて、そして、もう手遅れである、ということに気がついてしまうのが怖いからである。
 これは仕事にも言える。1分でも早く始めれば1分早く終わることを、そのなすべきことの量の膨大さに気づいてしまうことが怖くて、結局やらずにどんどん先延ばしにしてしまうのである。
 僕はこの文章、つまりこの日記を書き始めるのにも、ずいぶん決心が必要だった。それは、僕は今文字起こしをしなければならないからだし、文字起こしの期限はほとんどが明日までで、その分量があと音声で3時間分くらい残っているので、これはやっぱり、今頑張ってやらないと終わらないからである。そして、まぁ、別に明日に回してもいいんだけど、これを後回しにしてしまうと、他の、僕が受けもっている、5個だか6個だか7個だか、自分でもいくつあるのかわからない仕事群をやることが後回しになることも意味していて、そうするとますます僕は、その他のことをする時間がなくなるであろうことを恐れて、それで、とりあえず文字起こしを、その恐怖から逃れるためのせめてもの現実逃避として、やる、というようなところがある。
 ここでまた思いを馳せる。じゃあ、文字起こしをスッキリやらないでいいや、一旦、これは断って、自分がもっと打ち込みたいと思っている創作の方をやろう、と思ったとして、僕は果たして集中できるのだろうか、ということである。
 多分僕は集中できず、なんだか悶々としてなんとなく手近にあるものを消費し、本を読んだりケータイを見たり、猫を観察してりして過ごし、それで中途半端な時間だけをそれにかけて、結局何も成さないだろう。これもわかっているのだ。もう30年生きてきて、このようなことは何十回もくり返しきたからすぐにわかる。僕はあんまり自分の人生にこれ以上の期待ができないような状態でもあるのだ。けど、野望は、それこそ1時間に一つ、いや、もっと頻繁に、現れては消える。素敵な家に住んで、面白いことをいっぱいやりたいぞう、と。その具体的な中身が、1日ごと、半日ごと、いや、1時間、いやいや、5分ごとに、本当に違うんである(これって、でも、きっと多くの人がそうなんだろうな)。そして、ああ、でも今目の前のことやるしかないんだよ、と、このように、毎日堂々巡りをしている。
 いつだって、何も考えずに、ただ行為の中に没頭できたらいいのに、と思う。そのためには何が必要なんだろうか、と僕はそのことばかり考えている。さっさと、本質的な、行為の方に没頭したいのだ。 
 そのためにはやっぱり、内容なんてなんでもいい、質なんてどうでもいい、と思うことがまず大事なのだ。現にこの文章は、もう前後の論理も、脈絡も、誤字脱字も、論旨も、読みやすさも、親切さも、読ませたい相手も、なんもかんも、とにかく意識なんかしないで、ただ何かをキーボードを打って画面に焼き付けるという行為にだけ没頭したいという思いを具体的な形にするためだけに行っている。ここまで書くのに、10分もかかっていないのだ。
 僕はこれぐらいの勢いで、自分の本だって書けたらいいのに、と思っている。どんどん作品を生み出して、読者も追いつけないぐらいのスピードで、ものをたくさん生み出して、でも読んだら面白いものを書けたらいいのに、と思っている。
 なんだか、今までまともなものを全然生み出してないじゃないか、みたいな気分になることだって、あるわけだけど、でも、そう言っている間に、いや、こういうふうに思った、ということをこうして文字にして書くとか、あるいは漫画にしてもいいし、絵にしてもいいし、なんらかの別のものに昇華することでそれは何か人に触れてもらえるものになる、ということもまた真実である。
 「失敗と、それによる無駄」を極度に恐れている自分がいる。

 ※※※

さびねこのぽんが、少しずつ家に慣れてきているのがわかる。と同時に、なかなか慣れてくれないな、という焦りもある。なにしろ、以前うちにきた猫が、きた初日からお腹をみせてゴロンゴロンするような甘えた猫だったので、ついついそっちの方を基準にして、考えてしまうのである。
 家に帰ると、ぽんは、トコトコと隠れている場所から出てくる。ロフトの上にいたのならば、僕が玄関から部屋に入るや否や、とこん、とこんと梯子を降りてきて、こっちを伺いつつ下にくる。押入れにいたのならば、どどん、と物入れの上から降りてくる音がして、隙間からそっとこちらを伺いながら出てくる。そして、梯子や机に頭突きをしつつ、僕の足にもちょっとスリッとして、周りをぐるぐると歩き始める。餌が欲しいのかなぁ、と思って餌をあげる。食べる時もあれば食べない時もある。ぽんは、比較的カリカリを食べてくれる方だ、と思う。でも、ウェットフードをあげると特に喜ぶ。最近は、ウェットのおいしさに味をしめてしまったようで、カリカリをあんまり食べてくれないことも多い。それか、最近カリカリの種類を変えたので、それがいけないのかもしれない。
 そして初めのうちは、顎や額をなでなですると目を瞑ったりして少しは気持ちよさそうなのだが、それもしばらくすると、体に触ると「むっ」とした表情をするようになる。
 それでももう一回触ろうとすると、ぶんと前脚を振りかぶって、シャー、と威嚇してくる。
 僕はそれが怖くなってしまって、最初のうちはあまり気にせずワサワサと触っていたのが、だんだん迂闊に触れなくなってしまった。
 これはこれで、いいところに落ち着いたということなんだろうけど、僕としてはやっぱり寂しい、というか、少し悲しい気持ちになる。すぐそばにいて、毛繕いなんかしてくつろいでいるんだけど、なんだか僕はその猫に嫌われているんだろうか、という気分になってしまうのだ。
 もちろん、本当は嫌われていないのも知っている。昨日だって、そう、昨日は初めて、夜中に、呼んでもいないのに、僕が寝ている間、よっこいしょとベッドの上に上がってきて、足元で丸くなって寝ていた。むしろ、この猫は僕のことがどっちかというと好きな方なんだと思う。でも、やっぱり、時々は本気で殴られて、威嚇される、ということに、なんだか悲しさ、憤りを感じるのだ。普通こういうことってちょっと言いづらいと思うんだけど、僕はこれを吐露する相手がほとんどいないし、素直に感じたことを書くことが大事だろうと思うから、書いておく。こういう思いをする人だって、いっぱいいると思う。
 社会的に「こういう態度が望ましい」とされる(と、少なくとも自分が思っている)ものから無言で受ける圧力は、誰か他の人も、実は同じように感じていたんだ、とただ知ることですぐに解消するものだったりする。
 そして、自分なりの明るさに再び向かって行けたりする。
 ああ、僕はもっと自由になりたいな。

2022年9月25日日曜日

全部やる日記 10

 今週はほとんど、テニスの国際大会の手伝いをしていた。友人からの誘いで引き受けた。賞金を受け取りにくる選手たちに領収書を渡すだけの業務なんだけど、これが楽しかった。余った時間は、機材クルーの外国人から来たトラブル対応や、雑用係として会場を行ったり来たりしていた。僕はこうして現場で身体を動かすことが好きだ。そして、そこに窮屈さがない、ということがとても大事。規制の多いところにいると途端に悲しくなる。バッタみたいに、ぴょこん、ぴょこんとホップステップで移動して、違うところで仕事をしているのが好き。
 同時期に、3連休でジャグリング大会のJJFをやっていた。2007年に初めて参加してから、参加者としてだったり、海外ゲストのアテンドをしたりで密接に関わっていた時期もあった。今年は広報の翻訳業務という形で遠隔的に携わっているだけ。行ったら仲のいい人や、しばらくぶりの人にも会えるし、楽しいであろうことはわかっている。でもなんとなく今年はいいかなと思って、最終日に行こうと思えば行けたけれど行かなかった。それよりは、もっと個人的に仲のいいジャグラーとじっくり話をしたり、楽しいことをしたい。別にジャグリングをしなくてもよい。自分の中で何かが熟成される気配を感じるのが好き。
 そんなわけで今日は桜木町に行って、無印良品で少し秋服を揃えた。そのあと市役所のお気に入りのスターバックスに仕事をしに行ったが、連休だったこともあって座れず。結局妙蓮寺に戻る。野毛では、大道芸イベントもやっていたみたいだけど、それも行かずに帰ってきた。見たら楽しかったのだろう、それも知っている。懐かしい人にも会える。でも、なんとなくそういう気持ちにならなかった。
 大規模にジャグラーと交流するのは、年に一回、EJCに行くぐらいでいいかなと思っている。あんまり公演を見る気にもならない。なんでだろう。僕はそれこそ数年前まで、それなりの数の公演を見ていたけれども。僕は今、小さい規模で、本当に気の合う人たちだけで一緒に海でも眺め、ビールでも飲みながら話をする、というのがやりたい。やるならそれくらいでいい。レベルの高いジャグリングを見たい、という欲があんまりない。
 自分が心地の良い生活圏を維持することに興味がある。何か自分なりに納得できるものを生み出すまでは、あまり多くの人に会いたくない、ということもある。
 インターネットで情報が洪水のように流れてくる状況にも、やっぱり時々辟易する。
 普段生活をしているだけで、僕は初対面の人とどんどん話してしまう。あまり新しい出会いを特別なところで求めてもいない。もっと内面を向く時間を増やした方がいい、という自分なりの、身体からの指令なんだろう。あんまり波風を立てたくない、とも思っている。僕は今まで、あまりにもたくさん、人と関わりすぎてしまったと思っている。関わる分だけ、たくさんいい思い出も、悪い思い出もあって、それを処理しきれないでいる。
 どこか静かなところで隠遁しながら、時々、全然関係ない文脈のところで元気に跳ね回って、また帰っていく、というのがいいな。

2022年9月19日月曜日

全部やる日記 9

 朝から天気が悪く、タリーズには行かず。 家で文字起こしの仕事を進めようとするのだが、とんでもなく眠くて、ほとんど進まない。空気に押しつぶされるような感じがする。猫もなんだか落ち着きがなく、ロフトに登ったり降りたりを繰り返している。断続的に仕事をしながら、途中、耐えきれずベッドに突っ伏して、気づいたら一時間ほど寝ていた。
 このままでは一日が終わってしまう、と思って、猫を置いてとりあえず家を出る。みなとみらいまで行こうと思ったが、生活綴方に寄ったら、話したい人たちがいたので、少し話をして、それから結局綴方の本屋の二階で仕事をしていくことにした。
 小指さんの新作『人生』を買う。本を買うのは嬉しいね。
 猫をどうにかして慣れさせたいなぁ、と思っている。やっぱり、逆にしばらくかまわない方がいいのかな、と思う。餌だけ、自分の手から上げて、美味しいものをいっぱいあげて、あとは放って置いて、向こうの方からくるのを待ったらいいかもしれない。
 ぽんちゃんは自分が思い描いていたような猫ではなくて、でもそれは動物だから当然で、いや、もう少し僕も考えて連れてくることもできたのだろうけど、でももう過去に戻ることはできないし、ただ僕は今の状況を受け入れて、ここからどういうステップを踏んでいくと面白い、穏やかで幸せでいい感じになりそうか、ということだけを考えている。
 一度部屋の隙間を塞いでみて、あまり隠れられないようにしてもいいのかもしれない、と思っている。それで、ちょっとずつ距離を縮めてみる。焦らない、焦らない。

2022年9月18日