美術館に行っていい色づかいを見る。かつて存在した優秀な芸術家を知る。自分もなにかいい色づかいがしたい、とおもう。着るものでもいい。
「静かでおおきな空間」がいつでも使えたらいいな、とも思う。
どこか近所でいい図書館はないだろうか、と思う。
美術館に行っていい色づかいを見る。かつて存在した優秀な芸術家を知る。自分もなにかいい色づかいがしたい、とおもう。着るものでもいい。
「静かでおおきな空間」がいつでも使えたらいいな、とも思う。
どこか近所でいい図書館はないだろうか、と思う。
どのくらいまで世界を把握するか、って大事だな。というか、自分はどのぐらいまで世界を把握したいと思って生きているのか、ということを常に自覚していることが大事だ、と思う。
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ものを書くには、とにかく「自分が今書きたいことを書く」以外に、気持ちよくうまく書くことってきっとできないだろう。だからこのブログに関しては、それなりにうまく行く。今、刹那的に感興をそそられたことを書いているだけだから。長丁場の書き物をする場合って、やっぱり、その「刹那」を最大限にその尺で伸ばしてあげる、という工夫がいる。でも同じ感興が延々続く、ということは実際にはないので、そういう書き方から脱却する必要があるような気もする。
だからシステムが重要になるんだろう。
まぁ、言ってないで、いいからやれ、という話でもあります。
体を動かすのはやっぱり気持ちがいい。昨日久しぶりに、全力で走り回った。まぁ、30分ぐらい、子供たちと遊んだ、というだけなのだけど。
逆にこういう経験をすると、ここ数年間、全力で走る、というのをもう数ヶ月に一回しかやっていないのって、なんか、危機的状況なんじゃないか、という気がしてくる。
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昨日も桜木町のカフェにこもって、淡々と仕事をして、終わったら即座に執筆。
なんか、流れが途絶えているような気もする。本を書くぞ、と思った時に思い描いていた感じとはだいぶ違ってきている感じ、何か、自分はとんでもなくつまらないものを書いているんじゃないか、という感じがしてくる。
でも、一旦間をおいて、少し別の仕事をしてからまた原稿に向かうと、不思議と面白い話を思い出したりする。
でも、正直言って、何が面白くて、何が面白くない、とか全くわからなくなってくる。これは、もうちょっと、時間が必要かもな、という感じもする。
それと、思った以上に、僕は「ざっくりと大筋をまず語る」ということがなんだか苦手なんだ、ということを発見している(まぁ前から知っていたといえば知っていたが)。一度細かい話を書き出すと、もうそこを詰めること、延々と同じ箇所を書いたり削ったり、ということを繰り返してしまって、全然先に進まなくなってしまうのである。
これは、一旦今日、大筋を固める、ということをしないといけない気がしている。
がんばれがんばれ。
旅が恋しい気持ちを執筆にぶつけている。
旅で得る充実した気分は、終わった後にその旅を反芻する時、一番完璧な形になる気がしている。自己の移動と人との交流が鑑賞対象となるとき、その旅が物語という一個の作品になる。
だが旅について語ったり、文章を書いたりすることで言えば、僕は美化や誇張とずっと戦っている。話を盛ってしまう自分との戦いとも言い換えられる。
特に外国で体験したことなど、ついつい面白おかしく、武勇伝みたいに話してしまいがちである。僕は、話に、真に面白い内容が含まれていない場合、その話はその面白さの度合いにあった語りで外に出されるべきではないか、と思っている。
語り方次第で話は面白くなる、というのはもちろん事実である一方で、自分自身が本当にそれを切実に語りたいと思っているのかどうか、という点は、ずっと心に留めておく。
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本当に、具体的に、計画を立てるとやる気が出てくる。
漠然とした不安には、とにかく、お金でも、時間でも、なんでもとにかく具体的に計画を立てることが大事だ。
目を見る相手を明確にするのだ。
全然集中できない時、ってあるね。そしてそれはもう、ちょっと自分ではどうしようもないくらい集中ができないのである。そもそも集中なんて自分にはする能力がないんじゃないの、っていうくらいできなくなってしまう。
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nendoの佐藤オオキさんがどこかで、「インプットの日とアウトプットの日を分けている」と言っていた。そういうことはあるだろうな、と自分でも思うが、うまく分けられていない。分けたいね。分けられるように、あえて、「アウトプットをやらない日」を作るのには、勇気がいるね。
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確定申告を、えい、とやった。やってみれば、作業の量は多かったが、半日で終わった。
まぁ、そういうものです。
しばしこのブログで必死に宣伝していた「ジャグリングの展示」が、延期となりました。
最短でも「GWが明けてから」になりそうです。
理由はさまざまですが、端的に言うと「明らかに時間が足りない」ことが主な理由です。
まだそこまで大々的に宣伝はしておらず、ギリギリセーフか…とは思っているのですが、楽しみにしてくださっていた方々、ごめんなさい!
そもそも、「展示」という形式でイベントを必ずしもやるかも含め、一旦保留した再スタートになります。
当初の構想と全然違うものになるそうな気はしますが、展示は、妥当性を、これ以上はちょっと納得できない、というぐらいまで、はっちゃめちゃに納得した上で、形を整えて、やりたい。というのが今の気分です。
いずれにせよ、やはり一旦仕切り直し。
でも。
今心の中に、自分の中にあるものを世に出したい衝動がメラメラと湧いてきています。
「展示をしよう」というきっかけを与えられて、初めは主にジャグリング雑誌の「YANA」をうまく紹介できるように、でもさらに大きい枠を用意しよう、と各方面にも迷惑をかけながら、躍起になってまとめようと考えていましたが、なんだかうまくいきませんでした。
そもそもどこを目指して走っているのか、何にもわからんかった。
でもそのおかげで、全然違う経路にはなったけど、これは、本当にやりたいことかもしれない、という、まだ小さいけれど、これだけは疑いえない、という真珠の核みたいなものが、見つかった気がします。
ちょっと、今までに味わったことがない気分。
少なくともそれが成長したものは、いつになるか保証がまだできませんが、皆さんにいずれお見せできると思います。
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まぁ、言ってしまえば、やはり、本を書いている。
僕の人生の中で今までなかった、「本当に書きたいことを書きたいだけオールアウトでつぎ込んだ本」を一度、まずは書いてみたいと思っている。
それで、今、初めて、ああ、こういう風にやればいいのかもしれない、という、PONTEを始めた、2014年ぐらいからずっと探していた「やり方」の端緒を見つけたような気がする。長かった。
村上春樹と同じ、29歳だから、まだ間に合う。
どうか、この気分が続いてくれ。
その気分を忘れないため、到着するところだけははっきりするように、「あとがき」のような読み味の「はじめに」を、手短に、今日、1000字弱で書き上げた。こんなこと、今まで書いたことない、ということが書いてある。
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そんなわけで一旦、明日からこの「ながいつぶやき」は、また、平常運転の、隙の多い話に戻ります。パァ🌞
「ジャグリングの周り」について考えている。「ジャグラーがジャグリングをしていないとき」について考えている。
少し長めに、明日発行されるメルマガに文章を書いた。多分これは今回の展示の軸になるんじゃないかとおもう。これが本の前書きになってもいい、とすら思う。
自分がジャグリングで「これがいいのさ」と思っていること。
ジャグリングを通して持った意識。
ジャグリングがきっかけで出会った人。
技術だけではなくて、そういう要素が、その人のジャグリングの色だ。それは当然だと思うのだが、同時に、それがはっきりと外に表明されること、人の目に見える形で発信されること、ってなかなかないな、と思う。
そして、そういう「ジャグリングの技術以外の部分」が、クオリティの高い形式でせっせと発信されていくと、それこそ、一つの文化を形成する気がしている。
もちろん、余計なお世話かもしれない。なんだか、僕が全然世の中を知らないだけかもしれない。
ただ僕の頭の中には例えば、エリック・オーベリが Object Episodesでいつか言っていたような、「ジャグリングには、スケートボードとか、そういうところに比べると、カルチャーがなくて」(だいぶ雑に要約)ということがきっかけとしてあって、しばらくの間考えていたのだった。
「ジャグリング」という単語が一つあって、その単語から想起されることの厚み、というのか、まだ僕の頭の中でも言い方が固まっていないんだけど、そういうものが、つまり「文化」と呼ばれて参照されるものなんじゃないか、という気もしていて。
僕が個人として、少なからず、15年間ジャグリングという単語ととも過ごしてきたことを、何かもっと大きな流れに変換する、傍流から、意味のある流れとして合流していくには、そういう観点からのアプローチがもしかして有効かもしれない、と思っているのだ。
だからその始まりとして、今回の展示は、捉えることができるのかもしれない。
あるいは、とんだ勘違いかもしれないけどね(笑)
でも、少なくとも、そういう気でいるんだ。それが、楽しい。
今日はあまり触れられず。
特に書くこと、なし。
ただ、少し、イベントについて、進展、あった、かも。
「ジャグリングのジャグリングじゃないところ」が結構肝だとは思っているんだけど、逆に「ジャグリングそのもの」もそれはそれで提示したい、というところもあって、それはいい感じに叶うかもしれない。
今日、初めて本格的に展示のことに取り組んだ。抜本的にまず展示の内容について改めて考え、メモ紙にいっぱい書いて、色々並べてみた。
本を書くのがまず先だ、と直感でわかる。
そのため、いくつか自分が手本にしたい本を並べて、それを取っ替え引っ替え読みながら、実際にB5用紙を折って、簡単な束見本みたいなものを作ってイメージをして、原稿も少し書いた。
旅のことについて、時間が経ってから思い出して書いてもなかなか面白くするのは難しいというのは、PONTEの頃からわかっている。書いたはいいが、本になっていない以前の原稿も、ベースとして使った方がいいだろう。えい、もう、腹をくくれ。
こういう時、本当に苦しい。でも、楽しいとも言える。
誰しもが通るんだ。こういうのは。決して特別じゃない。ちょっとでもいいものを生み出そうとしたら、そこには、誰だって理不尽なくらいの葛藤がある。挫折したり、妥協するのは簡単である。でももう発言をすると決めた以上、社会にいいものを一つでも増やすという気持ちでいなきゃ、ほとんどいらないものを作ることになってしまう。それだけは悔しい。いらないものを作るぐらいだったら、黙っとけばいい。でも黙っていられないんだったら、みんなが楽しくなるようなものを作らないといけない。
そして、自分で、「ここが狙うところだ」という線引きをしなきゃいけない。どうしても、人間は打算的になって、いい感じに落とし込めそうな、「みんなが妥協できるところ」みたいな、70%ぐらいのいいところを考えてしまう。そんなの、どこにも答えは転がっていない。そんなものない。
自分でなるべく高いところに線を引くこと。それこそがものを作ったり、何かを見せる人の責任だと思う。
「妥当な線」なんて存在しない。「まずはこれくらい」なんてものは存在しない。そんなものを狙っていたらいいものなんて作れない。いきなり一番いいものが作れないといけない。少なくともそういう気でやっていないといけない。
ここ数日、ずっと自分の水準が低いことが頭に来ている。不機嫌だ。そんなところに窓辺で猫を呼び寄せるために、「オイ、オイ」と缶チューハイ片手に連呼する猫おじさんがくるもんだから、「ヨソでやれー!」と怒りたくもなる。
果たすべきことに対しての時間のなさを呪っているのでもあるし、自分が常に決断の先頭にいる、ということの怖さに向かい合うための、エンジンの鼓動でもある。
見てろよ、ほんとに。
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展示の内容を生み出す作業と、それ以外のパソコン作業が両立する気がしない。
展示のことを考える頭と、そのほかのことをする頭が全然違う。1日の中でも、作業時間を分けないとだめだ。そして、なんだか僕は運が悪くて、こういう時に限っていつもより多く仕事が来たりする。翻訳、すごく多い。まいったまいった。
まぁ、やる。