ちょっと早いけど書いちゃう。
今日は綴方で店番のつもりが、ちょっとした手違いがあって、別の方に。その分自分の仕事をした。
お昼を公園で食べて帰ってくると、ふじくんと、もう一人、僕らの共通の友達が来ていた。あれれ、と思って聞くと、Twitterで、青木がいるというのを把握し、買いたい本があったから来てくれたのだという。嬉しいなぁ。
でも、その肝心な買いたい本は売り切れ。あらら。
本を買おう、としてくれることがとても嬉しい。
ちょっと早いけど書いちゃう。
今日は綴方で店番のつもりが、ちょっとした手違いがあって、別の方に。その分自分の仕事をした。
お昼を公園で食べて帰ってくると、ふじくんと、もう一人、僕らの共通の友達が来ていた。あれれ、と思って聞くと、Twitterで、青木がいるというのを把握し、買いたい本があったから来てくれたのだという。嬉しいなぁ。
でも、その肝心な買いたい本は売り切れ。あらら。
本を買おう、としてくれることがとても嬉しい。
今日もあっちへこっちへ大忙しであった。
中目黒の方へ、ジャグリングを教えに行った。
ジャグリングを教えているななちゃんは、元々ぼくのジャグリングを見て、ジャグリングをやりたい、と言ってくれたのだった。
前回は久々に会って、いろいろ楽しく遊んだのだけど、今日はなんだかいろいろ悔しかったようで(ジャグリングがなかなか上達しなかった(笑))途中泣き出してしまったのだった。
そうかぁ、小さい時、ってこうだったな、と自分のことを思い出す。
僕は4歳か5歳ぐらいの時にハイパーヨーヨーを手にしたけど、その時は、技を一個、5分ぐらいやってみて、できなかったら、その技は自分にはできないんだ、と判断して、さっさとできる技だけをやって、「犬の散歩」ができるようになって、もう飽きてやめてしまったように覚えている。
ジャグリングを通して、普段はあんまり触れ合うことのない人たちと触れ合える、というのが一番楽しいね。
妙蓮寺で仕事したり、みなとみらいと横浜にモノを探しにいったり、大忙しの日であった。
喜ばしい日でも、ある。
ここはやっぱり、朝のうちにやった方がいいかもしれない。
このところ、朝は日銭稼ぎ、昼はUBER、夕方からは自分の仕事、というふうに割り振っている。
夜に語学をやるのはいいのだが、やっぱり、UBEReatsをやると眠くなってしまうのであった。
※※※
でも、体を動かすことと頭を使うことを1日の中でどちらもやる、というのは、とてもいいことだ、と思う。
やっぱり本能では、それを求めているんだな、ということを、眠い頭で思う。
今日も動いた。朝は早くなかったが、勘違いしてやっていなかったとりあえず翻訳に取り組んで、昼、UBERにいき、結構稼げて(時給2800円ぐらい?)寒いなかほくほく帰ってきて、ちょっとだけ昼寝をして、(隣のベトナム人のホアさんがノックしていた音が聞こえた。雪が降ったので、知らせたかったらしい。後で会ったら、「嬉しいねえ」と言っていた)また翻訳に取り組んで、あとラストスパートだな、と思ったところで、新横浜方面に行って、無印良品に用があったのでそれを済ませ、タリーズで翻訳の続きをやり、帰ってきても、まだ続きをやり、絵を描き、それで、今、ようやく終わった。いろいろ、新しい手帳を整備したり、なんだり。
じっくり考える時間があるのはいいな。
今までの人生、「自分の生活のシステムをしっかり整備したい」という思いがずっとある。
なんか、そのいったんが掴めた感じがした1日であった。
でもまたすぐ忘れてるのは目に見えていて、まぁ、それが人間の自然というか、環境適応の方法でもあるんだけど、でも、それに争いたいな、という気もある。
今日はなんだか充実していた。
朝、そこまで早かったわけではないのだが、起きたら支度をして、最近手伝いをしているパン屋に行った。そこでちょっとだけ手伝いをして、急いで家に帰ってUBERする。1時間だけだが、4本まわれた。ダブルもないのに、なかなかない。
家の近所でジャグリングをする。30分だけのつもりが、1時間半近くやってしまった。
家に帰って、翻訳を一本終わらせる。1日はやく終わっている。
その後、自分の「仕事」をしに妙蓮寺へ。絵を描いたり、フィンランド語やったり。
夕飯を綴方の人と一緒に食べて、また家に帰ってきて、今度はもう一本やるべきだった仕事を終わらせて、今。
これからちょっと話をすべき人と話をして、寝ようかと思う。
こうやって、いろいろスムーズに行った日はいいなぁ。
なんか、コツとしては、逆説的だが、一度に色々やろうとしない、ということかもしれない。
一つの場所で、やることを一つに絞ること。
書くことがあるないにかかわらず、さっさとタイマーをセットするの、本当に大事なのわかっているんだけどできないので、昨日は書くのを忘れていた。あらら。
※※※
https://note.com/daigoitatsu/n/n66fd7107c56a
PMジャグリングのだいごさんの毎日の日記がとてもいい。そうか、身近な人が毎日ものを書いているのを読むのって、こんなに楽しいのか、と思った。
※※※
こういう毎日の記録は畢竟自分のためにやっているのだと思わないと続かない。そしてもはや目的なんかいらない、ただ自分が没頭している時間を、1日の中で15分でいいから、もつのだ、そういう決意のもとでやるような感じが、いい。
絵を描くのも、没頭の時間のためである。
振り返らず、ただ進むだけ、みたいな時間を、持っているかどうかということは、直接、幸せと結びついているような気がする。
それは、じっくりとした自分の幸せなのだが。
「他人とは全然関係のない、低温の、でもくっきりとした幸せ」である。
このことに気がついて、今、パパパーッと書けるようになってきた。
時間をかけすぎるのもいけない。頭のスピードについていく。論理のスピードにしてはいけない。
論理なんか無いけど、頭の中にある色と、輪郭のない形みたいなものの形象を捉えられた、と感じられればそれでいい。
※※※
昨日の夜、ある人と電話をした後に、思うところあってiMacを注文した。少しずつ払い続けるのだが。
先日からメルカリで出品しだして7、8点売ったのだが、「モノはいつまでも手元に置いておくわけではない」というサイクルが成り立つ、ということが実感として分かった。
デスクトップコンピュータはずっと欲しいと思っていて、でも、いらないと言えばいらないかな、と思って保留し続けてもうかれこれ2年ぐらいになっていた。それで、ふと思い立って、そうか、月賦で買ってみて、いらないと判断したら、手放せばいいのだ、と思った。そのお金で残金を払っちゃえばいい。
今風に言えば、「定額サブスクリプションのサービス」を自分で構築する、という感じである。
で、ここで重要なのは、「モノそのもののサイクルを考えることで自分自身の生活の態度が見直される」ということにある。
モノはいつまでも所有しない、という考えで生きていると、必然的に、それ以外で大事なことってなんだろう、と考えるようになるのだ。
僕の場合、最終的な目標は、飛躍があるようだけれども、早寝早起きによって自分の好きなことを猛烈にやることだな、と思った。
そのために、「必要だ」と直感で判断したワクワクするような行動に対して、パッと時間とお金を投資することが結構大事なんだ、と気がついたのであった。
「行きたい!」と思ったところに、さっさと行く、ということも実はその延長。
実際、今年の正月にちょっとそれを実行してみたんだけど、結果、めぐりめぐって今とても幸せな気分が続いていたりする。
昨日、関内にある個人経営の居酒屋に絵を納品しにいった。
絵を頼まれて、それを描いてお金をもらう、初めての経験だった。
依頼者に会ったのは、昨年末のマーケットイベントだ。
ものづくりをしているふじ君に誘われて参加したそのイベント。冗談半分で自分でボールペンで描いた栞やポストカードを売っていた時、併せて大きめの絵を展示していたのだが、それを見て、「うちも描いてもらおうかな…」と、その、居酒屋の方がおっしゃったのだった。
それで、そのお店の外観を描くことになった。
※※※
すこし時間がかかったが、完成させ、昨日届けに行った。
額装をして持っていったこともあって、すぐにお店の入り口に飾ってもらえた。
カミソリの方が、シェーバーよりもいいなぁ、と思った。
最近、コンパクトでかっこいいシェーバーを買ってみたんだけど、どうも求めていたものではない、違う感じがする。
カミソリは結局のところ「髭を剃る用途のために使いやすくした刃物」である。
シェーバーだって、システムは複雑になっているが、「結局のところ髭を剃る用途のために使いやすくした刃物」である。でも、そこに利便性を追加するために、何かを犠牲にしている感じがあって、まぁ、いろいろ勘案すると、カミソリと対等だよね、みたいな感じがする。
だったらより、「純」なものの方がいいかも、と思ったり、する。
何か取り組むべき課題があって、でもそれをやるには、今、ちょっと、なんていうか、3時間ぐらい遅れていて、「あーあ、もっと早くやっておけばよかった」と思う手遅れ感ってある。
でも、その手遅れ感というのは、実はそれに取り組み始めた瞬間に雲散霧消する。
そのものに没入したとたんに、「それ」以外見えなくなる。
問題は、「それ」の課題設定があっているかどうか、ということである。
でも面倒なことというのは、往々にして「少し頑張らないと解決しないもの」であることが多くて、そういうものは、結構適切な難易度であることが多かったりもするのである。
※※※
一個一個のやり切ったなぁ、を、1日2、3個でいいから、積み重ねていく、というそれだけで、多分生きていてよかったなー、と感じるのである。
昨日は夜更かしをしたもんで、今日はつい遅く起きてしまった、という日も、とにかくさっさと課題に嫌々ながら取り組んでしまう、というのがいい。
段取りを作ろうとするのが一番もったいない。
※※※
最近メルカリでものを売ることを始めてみたのだが、思っているよりも代謝が早い。
そうか、このスピード感なら、確かに、とりあえず買ってみて、自分の用途に合わなければ売ってしまう、という風になっていくなあ、と思った。
売るのがあまりに簡単なので。
お金を稼ぐ、というよりは、そういう経済のあり方に自分を合わせていく、という感じがある。
何について書くと言うのでもないが、ひとまずタイマーをセットして画面に向かうと、ひとりでに言葉が出てくる。頭の中ではいつでも言葉が響いてるんだな、と感じる。
これは絵についても言えることで、何を描く、というのではないのだが、ペンと紙を用意して、あとは「描かなければ」という意志さえ用意すれば、勝手に絵は出てくる。それがいいものか悪いものかはわからないけれども、とりあえず、作品とか、文章とか、何かが出来上がる時というのは、「やるぞ」という意志を持って取り組み始めたときである。
人と相対したときに、勝手に会話が進む感じにも似ている。
だから、僕は何か一人で作っていたり、文章を書いたりしている時も、誰かに話しかけているような感じでそれをやっている。
「〜〜のため」という作為がないときに、一番流れるようにものが出来上がっていく感じがある。その作為がないとき、欲がないときに、かつ、質が高いものが流れているとき、というのが理想。そのために、「練習」が必要であったりする。そのための練習だったら、いいかな、という感じ。
外国語学習なんかも、そうだよな、と思う。
毎日絵を描くことも、なんだか、別に決めたわけではないのだが、自然な習慣になってきた。
※※※
今日はなんだか一日家にいた。
まぁ、たまにこういう日があるのもいいな。
このところ、本当にほぼ毎日、妙蓮寺にある本屋の二階に行っていてまるで出勤をするみたいになっていて、まぁ、それもいいのだけど、たまに家にいたくなったりもするのであった。
※※※
他人について、自分だけは知っているなにかがある、というのはいい。
「仲が良くなる」というのは、つまりそういうことじゃないか、と思ったりもする。
的外れで下手なことをしてるのが普通だ、と思えば、ほんと、生きるのがとても楽である。
「商品」というラインに乗らない、ノイズがたくさん入ったものは、一般には素人芸、みたいなことになってしまったり、優れてはいない、と言うことになってしまいがちだったりするんだけど、「人が作ったものだ」とはっきりわかるものって、それはそれで結構いいよね、と思う。
玄人が作ったものだけが鑑賞に値するものだと言うわけでもないしさ。
最近はもう、「いちいち上がり下がりしない」ことを旨として生きている。
成功したり、失敗したり、すごく嬉しいことがあったり、がっかりしたり、何か揺さぶられるようなことがあったり、色々ある。
自分のやりたいことに関してもそう。
人と一緒にいれば、それで一緒に受ける波もある。
けど大体において、波っていうのは放っておけば勝手に鎮まるのである。
だから足元をすくわれないようにするのがとっても大事。視線は遠く、遠くを見ていること。
そして波の力は、推進力にすること。
※※※
シンガポールの友人からおすすめされたポッドキャスト。
https://www.wnycstudios.org/podcasts/radiolab/episodes/translation
「translation」という言葉を、「何かを別のものに翻訳する」という広い意味で捉えた話のアンソロジー。言葉から言葉への翻訳の話もある。
見えるものを舌で感じる振動に変えるとか、サイエンスの話もあれば、電話口で翻訳をする仕事をする人の話とかも。
こういう良質な話をいっぱい外国語で聞きたいね。
同じことを何度も書くようだが、早起きがすべての活力の源。これだけ忘れなければたぶん全部うまくいく。「明らかな余裕」がないと、じっくりものを考えることができないからである。
※※※
「お、これはすごいな」と悔しくなるようなものを見たら、じっくりじっくり、毎日コトコトやることを見つける。そういう時、初めは欲が出てしまう。「この人は1日1時間これをやっているから、これを超えるには僕は1日3時間やらなきゃ」といった具合。
でも、何かを見て触発された時は、「自分を高めるチャンス」ではなくて、「自分を整えるチャンス」である。なぜか?それは、「自分を高める」という言葉には、言外に「他人よりも相対的に優れる」という含みがあることが多いから。
でも本当に長続きする幸せってそうじゃないんじゃね、自分が納得いくまで整っている時じゃん、と思う。自分が整っている時、というのは、僕にとっては、1日の中に、必ず、奥深くから取り出してきた言葉や、絵や、外国語への憧れの気持ちが一個ずつある、ということだ。その量はちょっとずつでいいから。これは別に他人を impress するためのものでは決してない。自分を impress させるためのものである。
「悔しさ」を感じても、それを意地になって越えようとしないこと。
ただ自分の奥深くを見ようとすること。
奥深くから何かを取り出すには、早起き、がすべて。
相変わらず早く起きられず。早く起きたければ早く寝るしかないわな。
1日15分何かをやる、ということって、決して難しくないはずだよね。ただ、「1日の中でその時間を取るだけ」という意味であれば。15分も隙間がない、という人ってそうそういないはずなんだ。
じゃあなんで僕らはなかなかそれができないのか、というと、たぶんそれは「何かをやる時にはいろいろと準備が必要だ」と思い込んでいるからかもしれない。
本当は、心の準備とか物の準備って、まずそのやりたいことに取り掛かってからはじめてできていくものだとおもうんだけど、どうも、始める前に、「ああして、こうして」とシミュレーションしてしまうよね。
単純作業をするのに、そんなシミュレーションなんて要らないはずなんだけど、どうしても準備をしようとしてしまうね。
僕は小学校のころ、『がまくんとかえるくん』が大好きだったんだけど、今、あれを読むと、どうしてもいろんなことが気になってしまって、読みづらい。
がまくんとかえるくん、そんなんじゃ強い奴らに狩られるから、しっかりしてくれ、と思ってしまって。うまく読めなくなってた。
素直に「これいいよね」って言えないんである。
もっとアイロニーと強さを持て、君たち!
と、アーノルド・ローベルののんびりした絵を前にして思ってしまう。
自分の好きなものが「か弱い存在」であるとき特有の、恐怖感からくる反発だよね。
※※※
「 普通でいつづける」というモットーどうかな。
文字起こしをしながら、ふと思いついたので、いったんタイマーを止め、改めて15分のタイマーをセットしてこれを書いている。
人間、生きていると、欲を出したり、ガッカリしたりするじゃん。褒められて嬉しくなったり、ちょっとした言動に深い意味を読み取ってしまって落ち込んだりするじゃん。あとは、自分の世間における相対的な能力が気になって、そのことばっかり考えてしまう、っていうこともある。
そんなとき、「普通でい続けよう」と心がけるのが一番いいと思った。自分の中に、荒波を立てない。普段の波みたいにさーっと寄ってきて、さーっと引いていく、その繰り返しを、深呼吸みたいな暮らしをできたらいいな、と思って。
そうでないと、大きな岩が動かない、という感覚があるからである。
有名になりたいとか思わないけど、生きているうちに、自分が動かせる一番大きな岩を動かしてみたいなぁ、という希望がある。でも、その大きな岩は、瞬発的な力じゃなくて、毎日飽きずに、じっと力を加え続けることで動くと思っている。
僕はこの日記(みたいな何か)では、「日課」についてひたすら書いているね。毎日何かをずっと続ける、ということについて、書いているね。
※※※
そうそう、「詩」を読もう、と思っても、どうしてもあまり読めない自分もいて、それはなんでだろう、ということも折に触れて考えている。
外国語であればガンガン読める気もしていて、それも少し何かを説明している気がする。
詩というものが、あまりに自分の急所と距離が近いんだろう。
英語の話だけどさ。
今朝起きて、南アフリカはソウェト出身のTrevor Noah がおばあちゃんと話している映像をみた。
今日もあまり早く起きられず。夜遅かったから。起床、7時半ごろか。昨日鶴見の方のパン屋さんでもらったパンを食べ、コーヒーを飲んで、本屋の二階へ。もう一度、鶴見の方のそのパン屋さんに行く。お手伝いしないか、という話をもらったのである。とりあえず行って、手伝ってみる。10時ごろ伺って、1時間ぐらい。別にほとんど何もしていないようなもんだが、なるほどね、なんか、面白そう、と思った。なんか、考える暇もないぐらい忙しくなりたい。(とか言って、他の仕事忘れないようにしないと)いったん本屋の二階に行って、絵を描いて、ちょっとしたら桜木町へ。友人とご飯を食べて、また、本屋の二階に戻ってくる。もうすっかり常連、というか、もはや僕しかいない時がとても多い。いろいろと中のことを考える。もっとお客さん来たらいいな。翻訳一本終わらす。ジャグリング雑誌「YANA」の宣伝用写真をやっと撮る。もっと早く撮っておきたかった…! あとは、宣伝文を考えて、宣伝POPを作って、日本語訳を載せた紙を印刷して、置きたい。文字起こしとかも今日やっちゃいたかったが、断念。今の目標は、自分で決めたことを「仕事だ」と言い張ること。少しずつ日課に昇華して、できて来てる。でもカタツムリの強さは気長なマラソンなので、くれぐれも気合を入れないようにしなきゃ。あと、とにかく早起きが肝心。
※※※
どこか、ジャッジされることを怖がっている節がある。
今日はなんと8時に起きてしまった。うーむ。
だらだらしてから、本屋の二階に向かって、今年二本めの翻訳仕事を終わらす。
フリーランスをやっていて、かつ自分でそれなりに時間をマネジメントできている時って最高に気持ちがいい。
できてない時は、最悪。
なんだかまたいろんなことが動き始めている。
新しい場所で仕事を手伝う機会が多い。
最高ですね。僕はとにかく飽きっぽいので、いろんな場所にいて、いろんな仕事がある方がいい。深く考えずに動かざるを得ない状況にいる方がいい。
国外旅行をする機会がない、というのが、ここに「いいこと」として表れている。今までだったら、月に1回は海外に行っているような感じだったので、どうにも、継続して何かをやろうとしてもペースが途中で乱れたりしていたのだけど、今は、大体家の周辺にいることが約束されているから、いろんな予定が組みやすい。
落ち着ける。
落ち着くのはいい。
落ち着いて、暇じゃなければ、訪れない直感だとか、チャンスがある。
もちろん落ち着きなく動いているときにしか訪れないチャンスもある。
まぁ、どっちも知っているのがいい感じね。
※※※
日課は最大の闘争方法かもしれない。
何か圧倒されるものに出会ったとき、それに対抗する手段としての、日課である。
抵抗、というと瞬発的な力のあるものが思い浮かぶけれど、そうじゃないかも、と思う。
じりじりと、巨大なカタツムリのように、延々とにじり続けるのが一番強そうだ。
「あいつは、止まらない」と思われるのが一番いい。
具体的に言えば、何かすごいなぁ、と思うようなものを見て、それに触発されて、さあやるぞ、と勢いこんで一日3時間勉強しちゃう、ではなくて、ただ、絶えない小さな火を灯す。じっくり、ゆっくり、一日15分はそれに取り組んでいる、ということを担保する、ということである。
「継続は力なり」という言葉だってあって、僕らはそれを最初から知っているのはずなのである。
今日は5時起き。湯を沸かし、その間に外に出て昨日と同じドーナツを買ってきて、食べながら1時間絵を描く。題材選びに時間がかかるのが歯痒い。いっそ、これの題材についても、はっきり決めてしまいたい。選択の自由があることはいいけれども、結果、取り掛かるのは遅くなる。気持ちよく行動にいきなり入りたい。
続けたいことに関しては選択肢を絞るのが賢い選択かもね。間違っていたな、と気付いたらその時点で修正すればいい。取り返しのつかないこと、って世の中にはそんなにないんじゃないか。むしろ「手遅れだったこと」の方が多いような気がする。
絵を描いた後、Twitterを眺めていたらアメリカの議会にトランプ支持者が侵入した、というニュースを見て、不安がおそう。
けど、これも、あまり自分にとって有益ではないかもしれない、と思い、30分ほどライブ中継を見て(聴いて)、いったん離れる。
どこまでが自分に関係のある事象であると考えるか。
アメリカの状況が日本と無関係だ、とは思わない。
一方で、アメリカの情勢と、自分の健康と比したときどちらが大事か、というと、僕は自分の健康の方を選ぶ人間でいようと思う。
それは、情報を得ることも、結局のところ健康を保つための、「自衛」の選択肢の一つであると思うからだ。
もし僕がもっとアメリカの政情について詳しくて、かつもっといろいろと関わりのある立場にいたのなら、もう少しこれについて考えたり、意見を整理したりするのだが、僕にとっては、差し当たり、これから翻訳するブログに出てきそうだな、とか、そういう程度の認識に留めておくのが、一番「自分にとって最適な」距離感である感じがする。
おそらくまたこれから数日、周りの友人たちが憤ったり、不安になっていたりする姿を見、「これは日本人にとっても無関係ではないどころか、大いに『自分ごと』なのである」っていう言説がまたバーっと流れると思う。またそれがある面で真実で、切実な場合があるのも知っているんだけど、でも僕自身は、これにすぐさま反応する必要はない、と思っておく。
頭に血が上るのは、当事者とその周辺の人たちで十分で、特に今、実質的な影響を受けない距離にいる僕は、いったん、深呼吸して、距離を保つのがいいように思う。
「我」を忘れないように。情報によって不安になりすぎて、関係のない他人どうしで非難しあったり、不安を増幅させるのは、なんか、本末転倒じゃん、と思う。むしろこの事件の根本にあるのは、まさに「情報によって受けた不安から自分を守るために他者を攻撃する」態度であるとも思うからである。
3時半に起きた。絵の素材を選び、絵を描いて、ファミリーマートに行ってドーナツとコーヒーを買ってきて、また少しだけ絵を描いて、今度は文章を書いている。
絵を描くにあたり、「上手く描けたかどうか」「失敗」をそう安易に決めつけないようにしたい。一回一回、とても上手く描けたり、上手く描けなかったりするの、当たり前じゃん、と思う。文章だって同じ。極めて平凡なことを書いてしまうこともあるし、ふとした弾みで思いがけないことを書けることもある。重要なのは、その生み出されたものが、そのときの感興を満たすために行われた行為の結果であるかどうか。つまり、自分にとって、その時、面白いと思うことに取り組めたかどうか。そういう基準で考えたい。
人は飽きるんだよね。だから、指針がない状態で何かを続けるのはとても難しい。この毎朝の文章も、1日15分だけ書く、と決めているから書ける。そういう目標を設定することによって、「毎日おこなう」ことそのものが報酬になる。それを達成するということが、自分の関心になる。普通だったら、文章でも絵でも、何かを自発的に生み出す時というのは、何かに触れて、それを外に出したい、という気持ちを強く持った時である。逆に言うと、それは「興味がない」ときは、やらない、ということになる。けど、何かを続けたい、と思ったら、「飽きる」「今日は興味がない」ということを、必ず訪れる前提として、予め別の報酬を用意しないといけない。
※※※
「自分は下手だ、と感じてしまう」のは、一つの「飽き」の発露であるように思う。そこに成長が見出せなくて「なぁんだ、どれだけやったって同じなんじゃないか」と飽きる。
そういう時に、日課が威力を発揮する。毎日淡々とやっていると、否が応でも、結果が悪くても、今の課題がなんなのか、ということが、言葉では表現できなくても、立ち現れてくる。そして長いスパンで、それに取り組む間、無意識に修正されてくる。そうして、一つの自然な「形」ができる。
速効性と効率を重視した、計画的な「学習」が工事だとすれば、毎日あまり深く考えず、ただやるだけの日課は、自分でもどこにいくのかわからない変化であって、「自然がもたらす地形の変化」みたいなものだ。日課によってどう変わっていくか、自分でもわからない。そしてこれは「上手くなる」という単線的な成長を目指すものではない。何か頂点のような達成があって、そこに向かっているのではない。少なくとも、僕が思う日課というのは、そんな話ではない。人は何も意識的にやらなくたって、勝手に変化する。日々摂取するもの、今まで摂取してきたもの、付き合ってきた人、感動したこと、つまらないと思ったこと、とにかく何もかもが有機的に、複合的にはたらきあって、それが自分を作るので、日課はただその方向付けを少しだけ変えている、というだけである。結果、いわゆる「うまさ」は手に入らないかもしれないけど、それでいい。「上手いとか下手とか、そんな単純じゃない」という、人生全体を包摂する信念のもとで、こういう日課なんてものをやっているのである。そうすれば、落ち込みもしないし、下手な希望も持たないからね。
ただ、変化していくだけ。
朝早く起きようと思ったが、起きられず。目が覚めたのは7時。昨日は結局23時を回ったので、もっと早く寝ないといけないね。今日も15分で書く。意識してとる15分というのは非常に長い。長いスパンでやる仕事がひと段落ついて、だいぶ気持ちが落ち着いている。後は、去年口約束をした仕事にこれから取り掛かる。今日、1個は終わらせる予定。後3時間くらいかければ終わると思う。
フィンランド語について、僕はそろそろ、「この言語が実際に使われているんだ」という実感を得た方がいいのではないか、という気がしている。「1日に1時間は、フィンランドにいるつもりになろう」というような決心をしたタイミングがあったんだけど、つまりそういうことである。この言語は実際に使用され、人々の交流に使われているんだ、という実感を得たい。
朝、起きて、いの一番に絵を描くのはとても気持ちがいい。
絵を描く日課も、1日1時間、ハガキ大の絵、ということに決めている。
あとの「仕事」ではない時間に、余暇として、しおりを描いたり、他の頼まれ仕事の絵を描いたりしようと思っている。
日課の威力はすごいな、と思う。「やることを定量的に決める」ことがとても肝心である。特に今時期なんかは、よし、やるぞ、という、「希望的な今年の目標」を立ててしまいがちだけど、それはたいていの場合上手くいかない。「一番調子が悪い時でも必ず続く日課」を設定するのが一番いいんだろう、と思っている。
あと、日課にとって大事なのは、「さっさと始めること」だ。
ああ、眠いなぁ、とか、準備が整ってから、とか、きりのいい時間になったら、とか、もっと、適切なタイミングがあるはずだ、とか、考えない。
思いついた、今、が一番適切なタイミングなのだ、と考えるのがいいね。
とにかく、まずは何かを作り出しながら、進め。
あ、あと、今日はバイクの修理代を支払わないとな。
必ず、15分きっかりでこの文章を書き上げることにする。今、Macの隣にはiPhoneで15分のタイマーが設定してある。泣いても笑っても、15分がたてばもうそれで終わりだし、15分経っても何も出てこなければ、それで終わり。これは、いい。以前にもこのことについて書いたことはあったのだが(いつだったかは忘れてしまった。多分このブログで検索すれば出てくる)「1日1個の文章を書く」だと、規則性が生まれなくて、いったいいつ終わったのやら自分でもわからない。なので、いまいち切り替えがうまくいかない。もちろんブログを開けば、ああ、今日も書いてあるや、と思えるわけだが、それでも、なんだか、特に上手くないことを毎日続けているようで、すっきりしない。「時間や量で決める日課」は大事だ、と思う。質で決める日課でもいいが、その質の評価が定量的であるのがいい。結局のところ、僕が日課で得たいのは、日々の達成感なのである。達成感の何がいいかというと、一つ達成感を感じることで、次の行動をさっぱりした状態で始められるからである。すこし厳しめの日課を設定することで、「やるべきことはやったな」と思える、というそのことが大事なのである。
学校にいた頃は、とにかく、時間というのは決まっていた。それで、時間割通りに動いて、始まりと終わりはしっかりあった。今、特に誰に決められるでもなく生活をしているので、何か時間割がないと、どうも規則性のない生活になってしまう。そして、規則性のない生活というのは、とても不安なのである。なぜなら、「今僕はこれをやっているのが一番正解である」という正当性をいちいち自分に言い聞かせなければいけないからである。そしてそういうことを常にやっているのは、精神的コストがとても高い。いちいち疲れちゃうのである。もちろんそれでやる気が満々になる時もあるんだけど、いや、そのやる気満々、までにえらく時間がかかっているので、結局1日2、3個しかやりたいことが終わらない、というふうになってくる。それでは困るのである。
量で決める日課を作って、それを一週間単位ぐらいでやってみて、修正して、また次の一種間を過ごして、というふうにしたい。これは、原始的な「仕事」と関係があるんじゃないか、という気もしている。狩りができる時間やタイミングは、限られている。その中で、のるかそるか、で「仕事」をするのである。見逃したら、もうそれで終わり、というのがいい。
※※※
現在の日課
少しでもプロアクティブなことを書こうと思う。
ものを書くのは難しい。
いいものが書ける直前は、「これを書いて、目に見える形にしたらきっとおもしろいぞ」と、たねがキラッと光る。
そのままの集中で、それを、相応の時間を与えて書きあげれば、おもしろいものができる。
だがアイデアというのは、夜に見る夢と似ていて、その場で言葉にしないとあっという間に消える。
また、書こうと思った時には、その種はものすごく光って見えたのに、形にしてみると、あれっ、なんだか、大したことないな、ということもある。
一喜一憂があると、ものを書くことを続けるのは難しいよね。
だからものを書き続けようと思ったら、絶望してはいけない。
そして、希望を持ってもいけないとおもう。
毎日きっかり、淡々と、決まった量をこなすのが何よりも大事である。
だから、すでに成果を上げている人を見て、ガッカリしてもいけないし、対抗心を出してもいけない。
ただ自分の描くべき量と、リズムを守るだけである。
動物を育てるのと同じようなことだね。
「習慣」とは、飼うものなんだな。
何かを飼うときの至上命題は、とにかく、のびのびと生きてもらうこと。
だから、「俺の習慣」がのびのびと生きてもらうにはどうすればいいかを考えよう。
毎日、適切な量の水をあげて、餌をあげて、でも、あげすぎてはいけない。
かまいすぎてもいけない。
その習慣に見あった世話の量を知って、あとはそれを毎日、淡々と続けるだけさ。
「ものを書く」という習慣のいいところは、たとえ旅をしていてもちゃんと世話ができるところ。
むしろものを書くという習慣君は、旅をすると、尻尾を振って喜んでくれるんだな。
正月、ということをあまり意識していない。いや、しているのかもしれない。
そんなにしていないかな。今日は、特に言いたいことがないや。
とりあえず、ブログとTwitterをIFTTTで連携した。
何かを毎日続けるときは、とにかくその障壁がすくない方がいいね。
新年が明けて、朝っぱらからこれを書いている。
今朝、フィンランド語の習得に関するブログまで始めた。こちらも、毎日更新。でも、ただ趣味でブラブラやるんじゃなくて、あっちは、最終的に本にするつもりで書いている。なので、仕事なのである。その分、こっちは気軽にやりたいな、と思っている。ここを書いている間は、脱抑制して、ただ、書きたいことを書いていればいい、気楽なことを、特にテーマなしで書いていればいい、という。僕はこう言う「油断を許さない生活」に、おそれながらも、実は憧れていたんだよな。
もう一件、口約束だけした原稿の仕事がある。あちらも、進めるつもりでいる。でも、まぁ、あれは午後からかな。
今日は、いったん、寝ます。
また起きたら、絵でも描こうかな。