3時半に起きた。絵の素材を選び、絵を描いて、ファミリーマートに行ってドーナツとコーヒーを買ってきて、また少しだけ絵を描いて、今度は文章を書いている。
絵を描くにあたり、「上手く描けたかどうか」「失敗」をそう安易に決めつけないようにしたい。一回一回、とても上手く描けたり、上手く描けなかったりするの、当たり前じゃん、と思う。文章だって同じ。極めて平凡なことを書いてしまうこともあるし、ふとした弾みで思いがけないことを書けることもある。重要なのは、その生み出されたものが、そのときの感興を満たすために行われた行為の結果であるかどうか。つまり、自分にとって、その時、面白いと思うことに取り組めたかどうか。そういう基準で考えたい。
人は飽きるんだよね。だから、指針がない状態で何かを続けるのはとても難しい。この毎朝の文章も、1日15分だけ書く、と決めているから書ける。そういう目標を設定することによって、「毎日おこなう」ことそのものが報酬になる。それを達成するということが、自分の関心になる。普通だったら、文章でも絵でも、何かを自発的に生み出す時というのは、何かに触れて、それを外に出したい、という気持ちを強く持った時である。逆に言うと、それは「興味がない」ときは、やらない、ということになる。けど、何かを続けたい、と思ったら、「飽きる」「今日は興味がない」ということを、必ず訪れる前提として、予め別の報酬を用意しないといけない。
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「自分は下手だ、と感じてしまう」のは、一つの「飽き」の発露であるように思う。そこに成長が見出せなくて「なぁんだ、どれだけやったって同じなんじゃないか」と飽きる。
そういう時に、日課が威力を発揮する。毎日淡々とやっていると、否が応でも、結果が悪くても、今の課題がなんなのか、ということが、言葉では表現できなくても、立ち現れてくる。そして長いスパンで、それに取り組む間、無意識に修正されてくる。そうして、一つの自然な「形」ができる。
速効性と効率を重視した、計画的な「学習」が工事だとすれば、毎日あまり深く考えず、ただやるだけの日課は、自分でもどこにいくのかわからない変化であって、「自然がもたらす地形の変化」みたいなものだ。日課によってどう変わっていくか、自分でもわからない。そしてこれは「上手くなる」という単線的な成長を目指すものではない。何か頂点のような達成があって、そこに向かっているのではない。少なくとも、僕が思う日課というのは、そんな話ではない。人は何も意識的にやらなくたって、勝手に変化する。日々摂取するもの、今まで摂取してきたもの、付き合ってきた人、感動したこと、つまらないと思ったこと、とにかく何もかもが有機的に、複合的にはたらきあって、それが自分を作るので、日課はただその方向付けを少しだけ変えている、というだけである。結果、いわゆる「うまさ」は手に入らないかもしれないけど、それでいい。「上手いとか下手とか、そんな単純じゃない」という、人生全体を包摂する信念のもとで、こういう日課なんてものをやっているのである。そうすれば、落ち込みもしないし、下手な希望も持たないからね。
ただ、変化していくだけ。
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