2022年7月31日日曜日

量を増やすだけ

 なんか自分はもっと「演じる」ということを楽しんでいたなあ、と昨日友達と電話をしていて思ったのである。小さい頃は、暇になるたびにぬいぐるみをバラバラとかごから出して、思いついた側からお話を演じさせていた。あれは、かなり自分にとって欲望と現実が肉薄した創作体験だった。

 それをそのまま、ということではなくても、何かしら近い感覚を呼び起こすことはできるんじゃないかとも思う。僕が一時期書いていたnoteの連載もそんな感覚を呼び起こすためのものであった。そこに余計な思慮のない、ただ思ったことを具現化するだけの行為がやっぱり一番楽しい。あとはその量を増やしていけば、もうそれで幸福でいられる。

2022年7月30日土曜日

偶然で

 あまり期待しないで一日を始めると、却って面白いことが起きる。朝起きてから適当に絵を描き、それからバイク配達に出た。特に希望もなく絶望もなく、まぁ他にやることもないし(あるけど)行くか、くらいの気持ちでなるべく淡々と出る。
 距離の長い依頼を選択的に選んでいたら、ずいぶん遠くまで飛ばされてしまった。そこで、前々から行きたいと思っていた猫カフェに近いところにいたことに気が付く。営業日を調べると、今日はちょうど営業日。その場で電話をかけてみたら、今日は今からOKだ、と言われる。では、とそのまま向かう。感じのいい、木でできた外装。中に入ると、ゆったりとした店内に猫たちが10匹ほどいた。
 今は、その猫カフェを出て、ガソリンスタンドにあるドトールでパソコンを広げている。何か劇的にいいことが起きているか、というとそうでもないけど、まぁ、これはこれで、それなりに面白いからいい。

2022年7月29日金曜日

合間でやる

 翻訳仕事の合間を縫ってここを書いておく。取り立てて書きたいことはないが、編集画面を開いて書いておく。文章を書くことが比較的好きだと分かっているのなら、あとは余裕を持って書ける時間をとことん生活の中に用意してあげればもうそれ以上することはないんじゃないか、と思う。必要なのは才能ではなくて、時間なのだ、と思う。

※※※

 昨日は夜に、急遽、生活綴方のお店番のサイトウさんと飲むことになった。白楽の焼き鳥屋に行った。普段はとても混んでいるのだが、平日の夜だからなのか、どうも感染者が増加しているからなのか、ほとんど席は埋まっていなかった。2人でお互いの話をしながらビールを傾けた。帰ったら少し頭が痛くなっていた。朝は起きられないだろうな、と思って、案の定、6時半に一度起きてゴミを捨てに行ってから、帰ってもう一度寝て、起きたら10時になっていた。

※※※

 やるべきだと思っていることが多すぎるような気もするが、どんどん拡散してしまう興味を抑えれば全部実現可能だとも思うし、でも拡散する興味をそんなに抑えていいのか、という気持ちもあるし、半々である。

 こうして要約だけ書いてとりあえず書いたことにしちゃう、というのもなんだか芸がないなと思っていて、だからこそ、「時間を費やさないと」と思っているわけで、相反することをしているなと思う。時間がかけられないのは、結局計画が下手だからなので、計画をきちんとできるようになる、ということで、自由に遊ぶ時間ができるということだよね。当たり前である。

2022年7月28日木曜日

お話がしたい

 文章というのは、書いている時間にのみ「書いている」と言えるので、とにかく、書こうと思ったら、まず書き始めるしかない。このことはもう何百回も言ってきているんだけど、それでもこうして書く。それはひとえに僕がそれをできていないから、であるのだが、でも、こうして思い出すことで辛うじてできるようにはなる。今、こうして書けている。
 昨日の朝に岩手から夜行バスで東京に帰ってきた。日比谷からすぐに電車で帰るつもりだったが、なんとなく朝の時間を引き伸ばしたくて、一番近くにあった喫茶店に入った。ここは、昔僕が有楽町の無印良品で働いていた頃に時々来ていた場所だ。今では店が拡張されて、かつての3倍ぐらいの広さになっている。店には全然人がいなくて、仕事をするのにはもってこいだったけど、ひとまず本を読むことにした。何事よりも、まずは一番気持ちいいと思えることをしたい。だから、岩手にいる間に買ってきた本を読んだ。それを読み終わると、日銭稼ぎの仕事の翻訳に取り掛かる。そんなに長い記事ではないんだけど、やはりそれほど気合が入るものでもないので、時間がかかる。2時間ぐらいかけて終わらせる。店を出る頃には正午を回っていた。
 横浜に帰ってくると、まずインスタント食品でお昼を済ませた。どうにも身体が疲れていて、まともに調理をする気が起きなかった。それを食べると、ベッドでじっとしていた。本当は、すぐにでも配達の仕事に出てやろうと思っていたのだが、まったくやる気が出ない。寝不足もあっただろう。せめて、と絵を描く。
 結局、夕方になってから、桃を友達のところに届けて、それから配達に出る。帰ってきたら電話をして、切ったらいつの間にか寝ていて、今日は起きたら電気がついていた。

 修行がしたいなぁ、と思っている。好きなことに妥協をしない、という修行である。常に、「これはやりたい!」と思えることに取り掛かること。

2022年7月26日火曜日

横浜に帰ってから思い出すのは

 今日の夜、岩手県の紫波町から横浜に帰る。三日間で、こちらの生活がずいぶん染み付いた。帰るのがちょっと寂しい。

 滞在中は、はんこ作家のあまのさくやさんに車でいっぱい案内をしていただいた。今月のはじめに縁あって知り合った彼女は、昨年の4月に東京から紫波町に移住してきた。情報発信をする地域おこし協力隊として元気に活動している。おかげで多くの場所に、人に会えた。

 地域の魅力とは、人である。カフェで抹茶を立ててくれたあいちゃんも、楽しそうにハードサイダーを入れてくれたきゅんさんも、今度は横浜に行きますと意気揚々と語ってくれたひやまさんも、ご飯を食べに入った食堂で、犬の散歩に誘ってくれた店主のけんじさんも、僕のことを面白がってけんじさんに紹介してくれたキミーさんも、昭和の香りがするカフェ・エーデルワイスでひとりコーヒーを飲んだ僕を、姿が見えなくなるまで見送ってくれた店主の方も、家族ぐるみで僕をもてなしてくれた畑の主なっちゃんも、紫波町を気に入ったことを一緒に喜んでくれた図書館の司書の吉田さんも、コミュニティ農園でサバサバと草を刈りながらカッコよく僕をもてなしてくれたまどかさんも、一緒にいてあたたかさを感じたひとりひとりの面影が、その地域にまた行きたいと思わせてくれる。

 紫波町は、駅の周辺地域は再開発されていて綺麗で、現代的な施設もたくさんあり、利便性が高い。しかし、車で5分も走れば、そこには田畑が広がる地域である。

 横浜とは暮らしが違う。家の横を、電車が通らない。夜はほとんど音がしない。空を見上げると雲や星が広く視界を彩る。遠くに見える山々が少し霞んで、夕刻を告げる。ひぐらしやカエルが鳴き、たぬきが歩く。青々と繁った稲が、そよ風に揺れている。

 横浜に帰ってから思い出すのは、こんな景色と、そして、出会った人たちのことだろう。



2022年7月25日月曜日

小さな焦燥感

 盛岡からほど近い、紫波町というところに来ている。到着したのは昨日で、駅に着いた瞬間に、全然人がいないと感じられた。日曜日の朝だからかもしれないし、元々こうなのかも知れない。パン屋でパンとコーヒーを買って、ベンチで食べた。ヨーロッパの夏の日々を思い出した。特に、チェコにいた頃のことを思い出した。その後に、チェコ大好きのあまのさくやさんに会うことがわかっていたからだろうか。そんなこともないような気がする。建物の感じ、草木のにおい、空気の香り、遠くの空。総合すると、今まで行った中では、一番合致するのがチェコの小さい町のような気がした。

 あまのさんが、町の小さな商店街(といってもそんなにたくさんお店があるわけではないのだが)にある古い建物でワークショップをやる、というので、ものを運ぶ手伝いをしながら、その周辺に一日中いた。ワークショップの参加者の方と話したり、少し歩いたところにある新しいカフェに行って飲み物を飲んだりして過ごした。別に何をしに来たのでもなくて、ただ何が起こるか楽しみで来て、たくさんの楽しいことが起きている。

 そしてそれでも、こんな時にでも、僕はなんでこんなところにいるんだろう、という思いを抱えながらいつもと違う場所にいる。なんで僕はいつでも小さな焦燥感を抱えているんだろうか。

2022年7月23日土曜日

聞かれたらさ

ノミ、殲滅したと思ったのだが、まだ少し残党がいたようである。何箇所か身体に刺され痕があって、きっと蚊だろうなぁ、と思っていたのだが、数日かけて、蚊に刺されたのとのは明らかに違う水脹れになってきて、ああ、まだいたか、とため息。
映画『エイリアン』で、殺したと思ったエイリアンが、まだ船内にいた時のリプリーのような気分になる。しょうがないので、また燻煙剤を買ってきて焚く。長期戦である。仕方がない。地道に掃除して、処分すべきものを処分していくしかない。大掃除の時期なのだと思って丁寧にやる。
※※※
明日から数日間、岩手に行く。別に何があるわけではないのだが、また、以前京都でやったのと同じように、遠くで普段通り過ごすことの実験。あとは、川が見たくなったから。圧倒されたくなったから。あとは、新しいサウナができたらしいから。
今は夜行バスを待っているところ。東京に来るのは少し久々だ。駐車場はすごく混んでいる。野外で人ごみの中にいる、という経験をしばらくしていなかった。今日もまた、4年前に会った人に、今年はEJCに行くのか、と聞かれた。行きたくないわけではもちろんないが、日本にいて、じっくり自分のことをするほうが今必要な気持ちもあって、つまりどっちでもいいや、ということなのだが、やっぱり行くのか、と聞かれると、行きたいなぁ、と思う。

2022年7月22日金曜日

よくきく

長いこと、身体を動かしていなかった、ということが今になってずいぶん意識させられる。昨日、俺は身体を動かすんだ、と思って、体育館に行って1時間ほどだがジャグリングやらなんやら練習をした。夜は清々しく眠れた。そもそも、以前は新しいベッドが身体に合っていないから眠れないんだと思っていたのだが、身体が十分に疲れていないから眠れていなかったのではないか、と思う。身体がしっかり疲れて、そのおかげでしっかり眠って、それによってなんだか清々しい気分になる、という感覚を忘れていたのだった。数年前までは、何も身体を動かしていないとそれだけで罪悪感を感じていた。なんだか最近忙しいというか、デスクワークばかりで、これが自分のデフォルトのようになっていたのだけど、そうではない自分のことを時々インストールする、というか、流れに逆らうような心持ちで生活をしてみる。のも、いいだろうな、と思う。身体が何を感じているのか、もっとよく聞いてあげないとな、と思う。

2022年7月20日水曜日

怖さに向き合おうか

 ちょっとだけ遠くに行こうと思っている。こういう決定を下すのに僕は時間がかかる。ぱっぱと動いている人のように思われることも時々あるのだが、僕はとにかく悩み続けるタイプである。一番いい条件は何か、一番いい選択は何か、とずーっと考え続けてしまって、時間切れになるまで考えてしまう。これが常々、いやだなぁ、と思うのだが、これを真っ向から無視して動こうと思っても、怖くなって動けないのだから仕方がない。普段から酔ったような勢いで生きられればどんなに楽か、とも思う。
 まぁ、逆に、向き合って、とことん考える、そのスピードを早くするとか、そういう解決方法もあるのかも知れぬ。
※※※
 昨日、一昨日、そして今日で随分たくさん配達仕事をしたので、少し余裕がある。でも、その割に、夜に映画を見てしまったりするので、そこで±ゼロになっている。なんだって、ちょうどよく余裕を保てないんだろうか。油断が過ぎるんだ。

2022年7月19日火曜日

質については問わない。でも、質は問う

 今しがた、原稿5枚分くらいの文章を書いていたのだが、別にこれを公開する必要もないな、と思って結局消した。それでいいのだ。これぐらいでちょうどいい。文章にだってたくさんのスケッチのようなものがあっていい。
 同時に、別にそうでなければいけない、ということでもない。見せても見せなくてもどっちでもいい。「見せる価値のあるものだけを見せる」というのも、およそ僕にとってはちょっと不健康なあり方であるように思える。
 とにかく健康に何かを作り続けるコツは、質について問わないことである。楽しく作るために、質については問わない。でも、質は問うのだ。
 そういう、相矛盾したことをどちらも採用する、という「キッパリとした態度」って、できると思う。文章にすると変な感じがする。論理的に不可能な感じがする。
 でも実際には、これは成り立つのだ。
 人はこれを、態度が一貫していない、というかもしれない。でも僕は、なんとなく、態度が一貫している、ということよりも、行動が続けられる、ということが大事な気がするのだ。

はるばる会う人がいいのだ

いろいろな変化を早いスパンで欲する体質である。飽きっぽいとも言える。

僕は旅の何を好きでいるのか。ひとつには、明らかな変化を感じられること、である。場所、出会う人、匂い、光、音、ひとつひとつが違うと感じられると幸福だ。身体に総体として訪れる違和の感触が欲しい。結局、「違う場所に居る」という体験そのものを欲しているんだ。俺は違う場所に居るんだな、と生々しく思えればそれでいい。

そして、やっぱり人なんだよ。僕は会いたい人がいる場所に行くんだ。はるばる、というのもいいよね。はるばるを求めている。はるばるは、人との出会いの高揚感を倍増させるんだよ。はっとするんだ。この人ははるばる来たのだ、と思う時、すごくいい感じがしないか。

中学生の頃、友達が宇宙に行ってきたメダカの子孫をくれたことがあった。夢があるよな。そういうことなんだ。宇宙に行ってきたメダカ、って、別にそれだけで、他のメダカと何が違うわけでもない。でも、はるばる宇宙から来たのがいいのだ。

2022年7月17日日曜日

生活のすべてが栄養なんだ

 絵を描こう、と思った時、必ずしも立派なキャンバスに描き、額に飾って発表をしなくてもいいように、ちょっとドローイングをするような気持ちで文章を書くのもいい。それを発表する必要もないのだが、なんとなくみんなの目に見えるところに置いておくのもまたいい。基本的には、何か、自分の考えを整理するために書いている。さらさらとただ思いつくままに文章を書くのは、そのへんに置いてある白い紙にパッとペンをとっていきなり線を書き始めるのと同じである。それがたまたま音声言語を移し取る文字に置き換わっているだけで、本質的には、脳内にあるイメージを線に変換するのとなんら変わりはないのである。でもそう考えると、そうか、絵を描くにも、文章を書くにも、その源泉となるイメージがどこからくるのか、というと、それまでに出会ったものでしかないので、やっぱり、生活、生活のすべてが栄養なんだ、と思うのである。

2022年7月16日土曜日

猫は週休何日か

 猫を見ていると、彼らは常にリラックスしているようでもあるし、同時に常に警戒しているようでもある。特に野良猫なんか、ぐでんと気を抜いて横になっていると思っていたのに、ちょっとこちらが一歩進んだだけで、ピクっと耳が動いて、次の一歩で、目を開いて前足を少し身体に寄せ、次の一歩で、立ち上がってさっさと塀の裏に行ってしまう。どんなにだるそうにしていても、「今日は休みの日だから天敵は回避しないでいいや」とか、ない。特に曜日によって動きが違う、ということがない。猫は「一日」という単位で休んでいないんだ。ただ、休みたいと感じた時に、適宜休んでいる。猫が休むのは、「土曜日だから」とか「今日は半休とったから」とかそういう理由じゃないのである。眠いから唐突にパソコンの上で寝るし、寝転がりたいから、歩いている最中にいきなり寝転がる。

 この呼吸が人間としても自然にあってるんじゃないか。いや、他の人のことはわからないけど、僕はそういうふうに生きるのがいいんじゃないか、そう思う。

 そう信じたいから、言い訳として、僕は猫のことなんか書いている。

 誰かに時間の拘束を受ける形で雇われていないので、いつでも仕事を開始して、いつでも仕事をやめることができる。でもそのせいで不安になることがある。周りを見ると、一週間のうち、たとえば5日間なら5日間しっかり働き、なんなら少し無理をして、その上で、「これだけ頑張ったから、私には休む権利がある」という充足というか、何か、義務から解放された感じ、それを祝福するように、土曜日、日曜日を過ごす人がいる。僕はそれを心底羨ましいなと思う。心配事なく、よーし、目一杯好きなことをするぞ、という決意の元で、実際に目一杯好きなことをやってみせるってなんて素敵だろうかと思う。

 でもそこで、猫のことを思うのだ。僕はついつい「思い切り休める一日」を持ちたいみたいな妄想をするわけだけど、「一日」という単位に縛られるのが、実はちょっとズレてるんじゃないか? と思うわけだ。動ける間はガンガン動いて、休みたくなったら、休みたい時間だけ、というか必要な時間だけ休んで、またガンガン動いて、でいいじゃん、と思うのだ。それがたまたま一日という単位と被るのか、そうではないのか、という違いなだけなんじゃないか。

 しかし、かたや、こうやってなんかいい感じのことを言うだけなのは簡単なんだけど、それを人間として社会生活にある程度コミットしている状態で実現するには、工夫が必要である。ただ単に「好きに生きればいい」みたいなのは、作戦不足で、結局、虚しい願望で終わる。頭を使わないといけない。

 いや、だって、例として、僕は今朝、7時には起きていたんだけど、朝のコーヒーを淹れながらiPadをいじっていたら、急に『アイアンマン』が見たくなったので、ちょっと冒頭だけ見ようと思ったら、気づけば一本全て観ていたのである(その前に『ミズ・マーベル』一話分も観ている)。これはその時々でやりたいことに集中したということになるのかもしれないけど、僕はその後、随分後悔している。これはなんでだろう。確かにやりたいことをやっているはずなんだけど、僕は不幸になっている。

 真剣に取り組みたいと思っていることに、真剣に取り組んだか? というのが判断基準なのである。「やりたいこと」と言っても、いくらでもある。その中で、自分の方から積極的に世界に働きかけている感じがすることができた場合に限り、僕は充足を感じている。

2022年7月15日金曜日

ジェット噴射と動的平衡、「同じ」を保つために変化する

 自身がどういう時に充実を感じるのか、ということについての個人的な研究をずっと続けている。というか、別にそんなふうにハッキリと思って日々生きているわけではないのだが、振り返るとそういうことを念頭に置いて日々動いている感じがする。俺はどうやったら落ち着くんだ、どうやったら集中できるんだ、どうやったら幸せだと思うんだ、と、トライアンドエラーの繰り返しで、これは一生続くのだろう。なんせ、一度作り上げたシステムが一生続けられるなんてことは、現実にはないからだ。いや、同じ「ような」システムが一生続くことがあるとは思うのだが、それは、たとえば同じスーパーカブという名称の商品でも、常に時代に合わせて細部を変えていたり、エンジンの効率を研究していたり、使用する原料を最適化するように、「同じ」を保つということは、実は「そのままでいい」というズボラな態度ではダメで、むしろ常に研究が要請される、地味な労力をかけてメンテナンスをしないといけない、大変なことなんだろうと思う。日々変化すること、やわらかくいることが、同一性を担保する。

 今頭に浮かんでいるのは「動的平衡」という言葉でもある。あとは、機体の飛行みたいなイメージもある。ジェット噴射で大事なのは、そこで何かが燃えて、推進力になっているということであって、それが途切れない、というのがいい。あとは、うまいこと翼を微調整して、その噴射による推進を調整する。飛ぶためには、まずは燃やす。燃焼効率が悪いなぁ、と思うかもしれないけど、とにかく、燃やす。

 昨日は配達を多めにやった。昼の時点で、定めていたノルマ分はほぼ終わっていたのだが、頑張れる時に頑張った方がいいんじゃないかという予感がして、10本多めにやった。結果としては、「期待されているより倍ぐらいの成果を達成している」というときは自信を持って満足を感じられるらしく、その後の動きが良かった。机を片付けて、紙とペンを置いて、じっと過ごしていても罪悪感がなかった。焦りを無くすための技術だ。ぎゅっと抑圧された状態があって、初めてバネが伸びる。自分が自分にどれぐらいの期待をしているか、そしてそれを上回るために、冷徹に時間を使うにはどうやって組んだらいいのか、それが具体的なテーマ。今日のところは、「とにかく時間で区切る」ということなのだろうな、と思っている。

※※※

 ちょっと関係ないけど思ったことがあって、僕がPM Jugglingの板津大吾さんと対談で話すと、自分でもいい感じだと思える言葉が出てくるのは、そこで他者に対して説明をしよう、なるべく開こう、自分とその周りでしか通じないようなジャーゴンも避けよう、安心はしているけど、小さな内輪ではない、海を探るような言葉にしよう、という意識が、自然に働いていたからじゃなかったか。自分が納得するために他の人と話をする、というのは立派な方法で、たとえばそれは、怒りが収まらない時に人に愚痴を言うと改善したり、悩みがあるときにただ聞いてほしい、という場合とも共通である。

2022年7月14日木曜日

変換されるプロセス

 昨日はなんだって一日中落ち込んでいたのか。気圧のせいだ、とか、寝不足だ、とか色々理由は考えられるけど、はっきりとした理由はわからない。そりゃそうだ。
 僕は何でもかんでも分析をしたがる。何かが表出した時、その根本にある感情とか、原因とかを探りたくなる。これが一般的なことなのか、そうでないのかはよくわからない。
 結局、具体的なミッションの遂行からどんどん離れれば離れるほど僕は落ち込むんじゃないか、と思った。心配ばかりして、うまく取りかかれずに、実際の作業をやっていない、ということ。突然の落ち込み、というのは、頭の中で想像している「想定の面倒くささ」がある閾値を超えた時に、絶望に変換されるプロセスなんだと思う。
※※※
 今何気なくフェイスブックを開いたら、ショーン・ガンディーニと奥さんのカティ・ユラ・ホッカラのとてつもなく格好いい夫婦写真が出てきて、気分が良くなった。定期的に圧倒されるのがいい。

ぼんやりした想像

「 満たされる」のは欲が叶った時。では、その欲がなんなのか、それを考える。何をするとき自分は幸せなのか。その時、なるべく具体的に言うのがそのための道ってもんだ。人に指示をする時、なんだって具体的に、しかもピンポイントで言った方がピッタリそれにあったことをできる。それと一緒である。

自分に指示をするのと、人に指示をするのと、ほとんど一緒じゃないか、と思う。あんまり自分をぼんやりした想像で惑わせちゃあいけないよね。

2022年7月13日水曜日

具体的に身の回りで起きていること

 ほんの2、3年前の自分の言動でも、なんなら数ヶ月前だって、「あー恥ずかしい」と思うことっていっぱいある。こんなこと表明するんじゃなかったよ、と思うこともいっぱいある。そのときはその時で精一杯の反応としてそれをやっているわけだけど、すごく部分的なものの見方だったよ、と思うこともたくさんあるし、これはちょっとあまりにこういうことに免疫がなかったね、と思うこともたくさんある。まだまだ経験していないことがいっぱいあるね、と今になって感じるのである。そして、あとになって、今の自分を見て、やっぱりそういう思いに駆られることもあるだろう。

 今は、とにかく、具体的に身の回りで起きていること、本当に感じていることについてなるべく多く語りたい、と思う。客観的にそちらに優位性がある、のではなくて、それがどれぐらい自分にとって切実か、ということに関して、その方が時間を割くべきことだと思うから。

2022年7月11日月曜日

源氏香の計算とアテンション・スパン

 さっきまで文字起こしをしていた。その中で、香道の話が出てきた。5種類の香木を5カケラずつ用意し、その中から5つを無作為に選び、順番に「聞いて」いって、どれとどれが同じだったかを当てる、という「源氏香」という遊びが紹介されていた。

 何番目と何番目が同じだったか、ということを図に落とし込み、その図柄によって源氏物語の巻に当てはめて遊ぶのだという。

 話しているうち、香道の先生は、全部で52の組み合わせがある、と言った。なんだかちょっとピンと来なかったので(予想より少し少ないような気がして)久しぶりに、紙とペンで組み合わせの計算をした。

 でも、パッと証明ができなかった。

 何より、あれ、と思いながら、紙にペンを走らせるのだが、どうにもうまく集中できなかった。2秒くらいで、別のことを勝手に考えてしまうのだ。

 ある一つの問題について考えようとすると、頭が真っ白になってしまう、というか、強制的に別のところに思考が移行してしまうというか、生理的に集中ができない頭になっていることに気がついたのだ。普段文章を書いたり、話をしたり、という程度の日常生活の中では感じていなかった思考の持続時間の短さ、要はアテンション・スパンの極端な短さを、ありありと意識せざるをえなかった。

 結果的には、この計算は少々場合わけの必要があって、(1〜5という香りが用意されていたとして、AABAAみたいな組み合わせだった時、AとBにそれぞれ例えばA=1,B=2を代入しても、A=3,B=5と代入しても、一緒とみなす、という部分に気がつくのにちょっと時間がかかった。要は「同じかどうか」と「順番」だけが区別の対象なのだ、だからお香の種類の割に、ちょっと組み合わせ総数が少ないと思ったのだ)この計算がパッとできなくてもまぁそこまで恥ずかしい事でもないんだけど、なんだかぼくは気落ちした。

2022年7月10日日曜日

習性を知ること

  あまり考えないでとにかく量をこなす、ということが、続けるという中では重要になってくる。この日記も別にやらなくてもいいといえばいいので、やらないで済ませることもできるのだが、そして今日は書かなくてもいいかもしれない、とも思ったのだが、やはり書いておくことにする。

 自然と出てくるものをいかにコントロールするか。例えば僕はまた、放っておくとYouTubeとかを見てしまうので、その習性をどう捻じ曲げて、自分が後々も嫌な気持ちを感じないようにするか。

 無理に「見てはいけない」と律するのは何か違うのではないかと感じる。むしろそれを力であると認識して、何か面白いことに結びつくように少しだけ進路変更してやる、みたいなことが重要なんじゃないかと思っている。

 まずは自分の習性を理解して、それにシステムみたいなものをくっつけることで、何か結果が変わる、というようなのがいい。

 僕は、色々見てしまう時に外国語のものを意識して選んでいて、それは多かれ少なかれ、何かの役には立っているな、と感じていたりする。

2022年7月9日土曜日

よーし、失敗しに行くか

 あれ、今日って10日だっけ、と思って、確認したら9日だった。何かを10日までにやるんだったな、と思って、ああ、そうだ、投票行くんだ、と思った。

 忙しいなぁ、と思うのに、何もできなくなってしまう、という時間がある。何だか、これやってもどうせ少ししかやること終わらないし、みたいな気分になる。これがなぜなのか、今まで全くわからなかった。やることがあるなら少しずつ終わらせるしかないのに、なぜいざそれに取り組もうとするとまるで無駄であるかのような錯覚を起こしてしまうのか。

 僕はそれが、「やり終えられたとしても、それが万全の成果ではないということが予期できてしまうから」だとわかった。

 試しに、「もう、何一つうまくいかなくていいや」と、むしろ何も成功させてはいけない、というルールを自分に課してみたら、今まで躊躇していたようなことがすいすいとできた。

 僕は今二階に住んでいるのだけど、洗濯していたTシャツが落ちてしまって、隣の人の家の庭に行ってしまった。これを取りたくて、声をかけようと思っていたのだけど、何だか二の足を踏んでいた。でも、「まぁ別に悪く思われても、迷惑そうな顔をされても、なんでもいいや、うまくいかないのが前提なんだから」と思ったら、さっと行って、すいませーん、と声をかけて、ニコニコしながらまた落ちちゃって(二日前もシーツが落ちた)、ご迷惑おかけしますー、なんて言って、向こうも「あー、はい、どうぞー」なんて言って、それで終わったのである。

 「何も考えるな」というのは無理なので、むしろ「よーし、失敗しに行くか」と積極的に思っていくと、何だか全てのことがスムーズにできるのだった。

2022年7月8日金曜日

ホッとする日記

 僕の仕事は不規則なので、あるときはぱったり仕事がないかと思えば、いきなりドバッと仕事が増えることもある。今日はドバッと増えた日。集中してかからねばならぬ。でも、この「集中せざるを得ない」という状態は非常に好き。当たり前だが、これが全て滞りなく遂行できて、うまくいった時は気持ちがいい。

 こういう状況を自分で作り出すのがいいんだろうと思う。余計なことを考える暇がないくらいに忙しいのがいい。そして金銭的にせよ精神的にせよ、何らかの報酬が確約されているのはやっぱりいい。さっさとやって、さっさと気持ち良くなっていく、っていうのがいい。

 ところが今朝は、6時に起きたはいいものの、洗濯をして、干し、掃除機をかけ、布団もスプレーをしたりして整え、窓を網戸付きで全開にして気持ちいいなぁ、と思って寝転んだところで記憶が飛び、次に起きたのは9時ごろにゴミ収集車がくる音楽が聞こえてきた時だった。

 疲れていたんだなと思った。

 そこから、森(近所のカフェ)に出勤してきて、仕事にがっと集中するわけだが、そんなにめちゃくちゃ気が進む仕事でもないので、こうして日記を書くのがホッとする。この緩急をうまく使い分けて、必要なことをさっさと終わらせて、楽にやっていく技術ってあるね。

2022年7月7日木曜日

作品を提出すること、自分が自分に取りたい態度

  昨日発行したメルマガに関して、2人の友人から、好意的な感想が直接LINEで届く。嬉しかった。

 昨日の内容は、態度を明確に言葉で語ったものだった。しかし、今回はたまたまそうだったけど、そういった内容でなくても、つまり、「明示的に態度を語った文章」ではなくても、何かをパッケージにして人に差し出す場合には、常にそこに「つくり手の態度」が自動的に含まれる。

 どこで差し出すのか、いつ差し出すのか。発表をする時点で表れる態度がそのひとつ。態度が作品の内容として明示されていなくても、受け手は相手の態度を勝手に想像する。

 たとえば深夜にいきなりメールが届いたら、その事実自体、好むと好まざるとにかかわらず、なんらかの印象を与える。深夜に送ってもいいと思っている、それぐらい信用している、緊急で伝えたいことがある、あるいはやりたいと思ったことはすぐにやる人間である、するべきことが昼間に終わらない人である、たとえばそういう自由な想像を、受け手に促す作用がある。noteでやるのか、ブロガーでやるのか、Facebookでやるのか、紙の本でしかやりとりをしないのか、そういうこともすべて態度である。

 そして日々をどのように積み上げた上で、その作品が提出されているか、という、一朝一夕には操作ができない要素も、不可避に織り込まれている。それも態度である。どう向き合っているのか、ということ。

 作品には必ずその前後の脈絡がある。つくり手の生活がある。それを見せるか見せないか、見せるとしたらどこまで見せるのか。自身の生活を伝える際に、どれぐらいのフィクション性を織り交ぜるのか。そういった態度まで、すべては作品(このウェブサイトも例外ではない)を取り巻く、態度表明の手段である。

 見られていない部分以外も、本当は筒抜けなのだ、と直感する。作品を発表するという行為には、つねに「態度の表明」がモロに含まれている。

 でも、他人に見られているから日々緊張せよ、と言いたいのではない。他人を意識せよ、というのではない。他人を意識して表明する態度を決めていたら、惑うだけになる。じゃあ何か。

 僕は言いたいのは、作品を通じて一番態度を見せつけられる相手は自分自身なんじゃないか、ということだ。一番先に現れるオーディエンスは、自分なんだ。

 だから正直であれ、と僕は思う。作品に持たせる緊張感というのは、自分に対して見せつけてやるための緊張感なんだ、と思う。最後には、自分がどうするか、でしかないのだ。だから僕はここで、作品が帯びる態度というものを、「自分が自分に取りたい態度」である、と定義する。

 どんどん発表していくことは、自分への態度を明らかにするという行為なのである。それは、彫刻家のはしもとみおさんなんか見ていても、やっぱりそう思う。でももちろんこれは、僕の勝手な解釈だ。実際に、はしもとみおさんがどういう考えなのかはわからない。

 でも、まさに言いたいのはそういうこと。どう頑張ったって鑑賞者は個々に勝手に解釈しちゃうのだ。あとは「自分がその態度に満足するかどうか」の方がよほど大事だ。僕は、主にインターネットと本、それといくつかの展覧会を通じて知った、はしもとみおさんの作品に触れて、そう勝手に受け取っているだけ。

2022年7月6日水曜日

勝手にリズムをととのえる

  文章を書くのにずいぶん手間どっている。書けるときはどんどん書けるのに、ここ数日はほとんど書けないでいた。でも急に、「書けるも書けないも何も、書き始めて書けるものを書けばいい」という気になったので、またこうして勢いよく書けている。

 とにかく判断をしない、ということが大事である。書けたものに関して、なるべく判断をしない。ただ書くこと。あんまり真剣になって、悲しくなるのが一番あほらしい。ともすると僕は、あんまり真剣に考えるあまりに、質が担保できないことに悲しくなって余計に書くことができなくなる、ということがある。

 でも、本当に大事なのは、生活のリズムである。

 「どう書くか」「何を作るか」というのは、あとからついてくるものであって、先に考えることではない。あくまで、リズムが整っていて、この時間にこれをする、ということが定まっていることが一番大事である。

 ※※※

 今まであまりKindleを積極的に使ってこなかったが、配達仕事の空き時間や、なんとなく手持ち無沙汰な時に、それなりのまとまった量の著作を読みたい、と思って、iPhoneのKindleに立花隆の昔の本を入れた。

2022年7月5日火曜日

会話の奥の方にあるもの

 昨日まで数日間、人とたくさん会って少しイレギュラーな生活が続いたので、今日はリズムを元に戻そうと、いつものカフェに来た。

  僕はいつでも人と喋っていたい。これは否定し難い僕自身の欲求である。でも、実際にはそうはいかないので、何か別の形に昇華するわけだが、どうせ時間をかけるなら、それこそが僕の仕事の本質になっていけばいい、と思った。文章を書くということは、取り組む意識次第では会話である。絵を描いてそれを見せるということも、会話である。それは、ひとりで作ったのちに作品にして差し出す、という一連の行為が、引き伸ばされた形の会話である、という意味である。

 そう捉えると、受け取りやすい形にすることが何より大事である。もちろんこの日記はこのままの形でもいいんだけど、この日記、いや、文章を、本の形にして差し出す、ということも、それは僕にとって「人と実際に会話する」ことで満たしたい欲求の、もっと深部を満たす行為になるはずである。

2022年7月4日月曜日

陸続きで遠くまで行く

 今日は奥多摩まで、カブで向かう予定だった。ジャグるライダーことせきやさんと一緒。しかし朝起きた時から、小降りとは言えない雨が降っていた。いまいち決めかねた態度で出発して走るうちに、うーむ、これは山に行く天気じゃないな、と思い、コンビニに避難して連絡をとる。どうしますかねぇ、と相談して、ピンとひらめいた。

 ちょうどお互いの地点から中間ぐらいの所にあった、だいごさんの家に向かうことにする。いきなりだし、行って大丈夫かな、と思ったが、いいよ、との返事で、すぐさま向かう。ほぼ同じタイミングで到着した。

 家でピザを頼んで、三人でつまみながらビデオを見る。友達の家に遊びにきた、という感じをじっくり味わった。

 せきやさんの日本一周の計画について聞いたり、だいごさんのボールのためし投げをしたりする。だいごさんが、家で黙々とボールを作っている感じに触れると、同じ場所でずーっと仕事ができるの、いいなぁ、と思う。研究、という名がふさわしいことを積み重ねて、それが仕事にできるのは幸せだよな。

 そのまま帰るのもなんなので、しばらく悩んだ挙句、大森の方にある海岸沿いの公園に行くことにした。初めて通話をしながら走ったが、とても面白かった。公園も向こうを飛んでいく飛行機が大きく見えて、都会の公園である、ということを開き直って堂々と魅力にしているような公園だなと思った。

 東京にバイクで行くのは初めてというのでもないし、だいごさんの家の方には何度も行っているのだが、家に帰ってきた時、不思議と、旅を終えたような気分になる。

 陸続きで帰ってくるのは、ハッキリと遠くまで行った気がして、いい。

  少しリズムが乱れてきているので、明日からまた朝の森の生活を再開する。

2022年7月3日日曜日

たちが悪い

 ここ数日、家にノミが発生していて、その駆除に追われている。実を言えばそのことで随分疲弊している。連日掃除機をかけて、洗濯できるものは少しずつ毎日洗濯して、撒ける薬剤は撒いている。

 それでも、数日対策したくらいだとまだピョンピョンと跳ねるノミを見かける。憎らしい感情が込み上げる。やれることをやるしかないので、日々掃除する。

 でもおかげで、掃除が毎日できる。逆に、今まであんまり掃除してなかったなぁ、と思う。

 ノミは本当にたちが悪い。痒さも蚊の3倍ぐらい。それが長続きする。ようやく収まってきたけど、刺されて2、3日は夜も寝づらかった。

 ゴキブリなんか可愛く思えるぐらい、ノミは本当にタチがわるい。

2022年7月2日土曜日

ベトナムコーヒー

  今日の朝方、とてもやりきれない気分だった。何を希望として生きていけばいいのか全くわからないような気持ちになっていた。とりあえず外に出た方がいいだろうと思って、外に出た。バイクに乗って配達をしたけど、それでもあまりよくならかなった。むしろひどくなっているようだった。急遽友達を誘って、昼ごはんを食べた。ベトナム料理を食べた。生春巻きと鶏肉のフォー。とても美味しかった。食後のジュースとベトナムコーヒーも美味しかった。

 コーヒーの底に沈んでいるコンデンスミルクみたいに、やりきれなさというのは、いつでもそこにあるなぁと思った。嫌な思いなんてない、と思っている生活も、その上にブラックコーヒーみたいに乗っているだけだ。時々溶かして一緒に飲むしかない。

 でも食後のコーヒーを飲む頃には、生々しい気持ちは去っていた。ありがたい。そのあと、どこに行くかもよく決められずとりあえず生活綴方の方に移動した。そこで店番をしていたなかじまさん、もふもふさん、女性のお客さん2人と、パピコを食べながら話し込んだ。お客さんのうちひとりは近所に住んでいる、というから、今後もまた会うかもしれない。

※※※

 文章によって、やりきれない時の感情を伝えることはとても難しい。というかそもそも、「伝わる」ということがない。あくまで、文章によって、受け手の脳の中に情景を喚起することしかできない。

 だからこそ救われることもある、と思う。

2022年7月1日金曜日

コロナ禍で実は僕はちょっとホッとしたんだ

  先ほど、チェコ共和国で開かれる「ロストチュ・フェスト」というフェスティバルのウェブサイトを見ていた。僕は2017年にこのフェスティバルに参加したことがある。その時は日本人のジャグラーの友人2人と一緒だった。その直前にポーランドで開かれていたイベントのEJCから流れてきた人もたくさんいて(僕らもそうだった)、とても楽しかった。

 今改めてウェブサイトを見て、楽しげな参加者たちが映る写真をスクロールしていると、やっぱり行きたくなってくる。ヨーロッパにいるときの夏の空気を思い出す。本当に、まるでその場で、匂いを嗅いでいるような気がしてくる。それはそれは美しい思い出である。

 今年だって、別に行こうと思えばどこへでも行ける。ただ、高い。往復で20万円前後だ。これは、今までの感覚からすると、ずいぶん高い。

 しかしいずれにしても今行くのは違う、と感じている。そりゃあ、行ったら楽しいだろう。でも、どこか消費的な旅行になってしまうとも思う。

 そしてはっきり言えば、僕は今までどこか消費的な旅をたくさんしてきてしまったと思っている。

 お金をやたらに払ってきた、というのではない。2018年にはフランス、イギリス、ポルトガル、フィンランドと4カ国を巡ってヨーロッパに45日間滞在したが、航空券、イベント参加費、宿泊費、食費全てトータルで20万円も使わなかった。だいたい、僕は人の家に泊めてもらうか、安いゲストハウスに泊まっていた。友達もたくさんできたし、宿にいた知らない人と仲良くなったりもした。旅のことを文章にして書いて、それを読んでもらった経験もたくさんある。

 とはいえ、基本的に僕は持ち出しで旅行をしているわけで、お金以外にそこで得たものもたくさんあるとは言っても、やはりその金銭的な損失を埋めるためにやったのは全然関係ない仕事ばかりだから、それがバランスを欠く行為であるように思えていた。

 僕はその部分が気になって仕方がないのだ。

 すべてが血肉になっている、という実感を持って家に帰りたい。「ああ楽しかった」だけだと、最終的に空虚な感じが残る。国なんか出ないで、自分の持ち場で淡々と自分のことをこなしている人に対して、萎縮してしまうような気持ちになる。

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 僕には夢がある。それは、どこの国に行くにしても、その国に行った時に通じる主要な言語を、大体不自由なく喋れる状態で出かける、ということである。もちろんその程度でその国や人を知ったことにはならないんだけど、対等に接するための道具を最低限持っていたい。そういう気持ちを動機にして、言葉を勉強したい。

 言葉に限らず、今まで僕は、勉強や反省もそこそこに、中途半端な状態で海外にばかり行っていたなぁと感じる。外国に行きたい、という欲があまりに強すぎて、じっくり前準備と後の生産に取り組まないで、次々に出かけていた。

 「行けるならなるべく多くの場所に行くべし」という強迫観念があった。

 そこへきて、コロナ禍で実は僕はちょっとホッとしたんだ。ああ、これで、海外に行かなくても自分自身に言い訳が立つ。「何かを逃している不安」を埋めるための旅行をしなくて済む、と思ったのだ。

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