2021年3月20日土曜日

ながいつぶやき(76)チャーリーチャーリー

何か書くんだったら、異常な量を書かないと意味ないんだよな。

もっと書くための機構を容易にする。

継続のためには、「決める」ことが大事だよね。調子がいい時は書く、調子が悪い時は書かない、というのでは、規則性が生まれなくて、継続しないのである。

とりあえず、最近なおざりだった15分ルール(どんなに狂うほど忙しくても15分間はこの文章に取り組む)を復活させる。迷ったら、この記事を読み直して、なんでこういうことをしてるのか、思い出す。

多分これで一歩は進む気がする。

僕の場合は今まで、何か真剣に考えたいこと、取り組みたいことを見つけるときに、自分のノートや手帳や、A4用紙かなんかに、手書きで少しアイデアを書き殴っていた。なぜ手書きだったかというと、ざっくりとしていても大丈夫だからである。何を書くのか、と言えば、まぁいろいろだけれども、明日のスケジュールをなるべく細かく立ててみる、とか、とにかく頭に浮かんでいることを文字や絵にしてみる、とか、長期、中期、短期で自分の身体が自然にやりたいと思えることを分けて書こうとしてみる、とかそういうことである。

でも、「ざっくりでいいや」みたいな態度でそういうものに取り組むのって、意味ないんじゃないかと思う。なぜなら、その「ざっくり」がより詳細に突き詰められていくタイミングというのは、そのあとでは十中八九存在しないからである。こういうのは、根拠は言えないけど、実感として、そういうもんだろう、と思っている。「今、何かに真剣に取り組みたい」と思ったら、それをその場で、なるべくクリアにする、その思考の流れを、質感が身体の中にある間に、なるべく忠実に、えいっと形にしておくことが大事である。昔は多分、そうだった。その場でなるべく多くのものを生み出したい、と思っていた。なんだか歳をとって、つまらない人間になってきたな、と自分で思わないか。思うね。楽をするようになってしまったと思うね。そういう楽さからいかに逃げるか、ということと、あとは向かうべき北極星みたいなものを見失わないことである。

いわゆる「仕事」が忙しくなってくると、なんだか、それを終わらせることを一心に考えてしまって、自分の身体がやりたいと思っていることを見逃すんだよ。だから、このブログを、そういうことがないように、一日、15分(なんて、すんごい短いけどさ)集中して、ちゃんと丁寧に自分が考えていることを述べるための時間にしたい。

これは、自分の机のノートに書きつけるメモと同じ態度で、書かれるべきものだ、ということでもある。外に出るものなんだ、という緊張感を一つの原動力にして、「そのうちやろう」と思っていることを、「今やる」ことの具体化にちゃんとしていく、という、そういう作業の場である。

そんなわけで、僕は今、心からしっくりくる表現を見つけよう、ちゃんと考える文章を、本として丁寧に書いていく、という日課を作りたい、とも思っていて(いっときできたんだけど、完全に忘れてしまったからね)まぁ、それをやるわけだ。

「〜〜をやりたいと思っている」と言っている間は、まぁ、それは実現しないことって多いね。多くの場合、それを言うことによって「少なくとも志はある」という免罪符みたいに使うことばかりなんだ。だから、ごちゃごちゃ怖がる前に、とにかく、目に見える、腕で押せる、舌で舐められる、具体性を持たせることをいつでも考えること。

※※※

旅なんか本当は好きじゃないんじゃないか、という疑念がもたげてきた。でも、そんなことはないと思うんで、ちょっと、もうちょっとシステマチックに「動く」ということをしたい。

んーむ。

これも作品にしないといかん。

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