昨日、調べ物をすることなんかについて書いたわけだけど、やっぱり、インターネットは意識的に使わないといけない、と今日も思った。
食べログとか、Googleの評価とかあって、確かにああいうのも一つの指標ではあるけど、それを読んでそこに行くことをよしてしまった時、それは果たして得と言えるんだろうか。
大失敗をすることも含めて、なんか、生き生きとした体験じゃないか、と思うわけである。「なんだあのラーメン屋は!」と語れるものがあることの方が、ネットで器用に調べられることよりもなんだか良さそうな感じがする。
どうしても僕は、どこかに行く前に下調べをかなり詳細にしてしまう癖がある。それが100%悪いってんでもないし、それで何か利益があることも知っているんだけど、(まぁ利益があると思ってやっているわけだ)なんだかそういう癖ばかりついてしまうと、どんどん勢いが失われている感じがする。結局僕は怖がっているだけなのである。
インターネットでもなんでも、誰かの話、というのはその人個人の体験であって、過去の体験であって、自分がそのお店や場所に行くときは、天気も違う、気温も違う、店主の機嫌も違う、自分の空腹具合も、体調も違う、いつだって未踏の領域なのに、なんだか知った気になって、足元が見えていないのはちょっと残念じゃないか。
実際には、例えばいい評価のカレー屋があったとして、徹底的に調べて、よし、ここなら大丈夫、と思ったとして、でもそのカレー屋のほんの些細なことが気になって、隣にいたお客がすごくうるさいとか、わからないけれども、全然良くない体験になることだってありうる。
逆に「店主が無愛想でとても嫌だった」とか書かれていても、僕としてはそのブスッとした感じが大好きかもしれない。しかもなんか、レビューをわざわざ書くような状況って、大体、とても良かったか、とても悪かったかのどっちかじゃないか。多分さ。
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「集合知によってベターな選択をできる」のは、論理的に考えて疑いようのないことかもしれないが、やっぱり、それに依存してしまっちゃあ、なんだか小粒な人生になるような気がしてしまうんだね。
同じように、誰かにとってのノウハウや情報は、役に立つようで、実は全然役に立たない、それは多くの場合、自分の気持ちを落ち着かせたりするのに有効な場合があるだけで、実戦に出てさっさと失敗した方が早い、ということもあるね。
まぁなので、誰かの「情報」は、精査する対象ではなくて、とっかかりぐらいにして、あとは実際に現場で、自分で精査する方がはるかに楽しいだろうね、っていう話ですね。
僕は今日、近所にできたカレー屋さんに行ってみようと思う。値段とか、調べてみようか、と思ったけど、なんのこたあない、自転車で3分なんだから行っちゃえばいのである。
大体カレー屋ごときでどんな失敗するっていうんだ。
なんだってやればいいのである。
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