2021年3月31日水曜日

ながいつぶやき(87)「ジャグリングの展示をつくる 8」今までの15年間を展示開催までの2週間の中に閉じ込めるように過ごして

だんだんと、展示を作る過程なんてなるべく見せない方がいいのかもしれないという気分にもなってくる。でもこれは展示そのものの宣伝も兼ねているので、まだまだ書いていく。
そして何をやっているのか、というとまだ何もできていない。

まぁ、アイデアは練っているんだけどさっきFacebookを開いたときに何かの投稿に「イマジネーションは実行しなければ意味がない」と書いてあって、ああ、もう、その通りだよ、と思っている。紙の上で5時間入念に考えるより、その5時間でさっさと無駄かもしれない1個の試作をする方が力がある。

とはいえ、もう一つの指針となりそうな言葉が出てきていて、それは「我々はジャグリングで世界を見ている」というものである。
「ジャグリング」がいわゆるステレオタイプ的な「パフォーマンスのために練習するもの」である、という観念を、タイトルだけでズドン、と撃ち落としたい。
でもまだ足りない。

もっとパーソナルな言葉を引き寄せてみたほうがいいのかもしれない。

僕がジャグリングとの関わりのうちで一番伝えたいのは、やっぱり旅をして人に会ってきた、ということである。それ以外にあまりない、と言ってもいい。
「ジャグリングそのもののよさ」みたいなものは、結局ジャグリングそのものを見ていただくしかない。
それを掘り下げて、一本の太い軸になって初めて、何か意味があるかもしれない、とも感じている。

考えて、作って、今までの15年間を展示開催までの2週間の中に閉じ込めるように過ごして、その結果をただ見せるだけだ、とも言える。

2021年3月30日火曜日

ながいつぶやき(86)「ジャグリングの展示をつくる 8」

ジャグリングについて考えていると、「仕事なんかしてる場合じゃねえー」と思う。

そして、それは抑えるべき衝動ではないと思う。

普通は、『生活』のための仕事が大事で、それは最低限やらなきゃいけなくて、まずそっちをこなしてから、余計な部分でジャグリングという遊びについて考えるものだ、という感じだと思うんだけど、いや、パッと考えた時に、楽しいことこそが生活だろう、と、猫なんか見ていても思う。猫、その場で思いついたやりたいことしかしてない。

そう、猫を見るとね、好きじゃない仕事なんかしてる場合じゃねえー、って思います。

※※※

自分のジャグリングについて改めて考えている。ディテールがものを言うジャグリングがしたい。空間をどのように使うか、練習の時から意識したい。そもそも最初からそれを練習したい。ある程度の技術はあるから、ジャグリングを空間の支配にどう使うか。その最中に壁にぶつかって初めて、必要な技術を考え、それを身につけたい。例としてディアボロだと、「回転が緩やかな状態でないとできないこと」って見過ごされている気がする。


※※※

何かを説明したり、伝えたりするのに、「物分かりのいい人」を対象にしないようにしたい、と思う。物分かりがいい、というのはつまり向こうが勝手にいいように解釈をしてくれる、ということだ。

2021年3月29日月曜日

ながいつぶやき(85)「ジャグリングの展示をつくる 7」

ジャグリングをした。外で、1時間ぐらい。本屋・生活綴方で、「ジャグリング部」を作ることにした。今日は天気もいいし、ジャグリングの練習を公園でやろう、と思ったんだけど、「ジャグリング部」ということにすればみんな来てくれるし、色々これから面白いだろうと思っただけ。

そうしたら、予想外の人々が3人来てくれた。Uさん、少し教えた。Cもきた。Sさんも最後の方に、少し来る。予想通り、Fujiくんは、店番を終えて来てくれた。

※※※

つくづく僕は、何かを率いること、何かを決定することが苦手だ、と思う。雑にまとめると、プレッシャーに弱い、ということだと思う。他人の期待に応える、という状態だと、どうも、「いいね。でももっとできただろうね」と思われるかもしれない、という無意識の不安がある感じがする。まぁ、気負わず、自分のやりたいこととだけ戦うしかあるまい、とも思う。

※※※

いざ時間ができると、色々と迷ってしまう、ということがある。

絵を描くときの、最初の一筆が決まらない感じと似ているね。これは。

もう、最初の一筆は、えい、と直感で行くしかないのである。

それから、適切な空間に、適切な線が見えてくる。

そういう順序だ。

ながいつぶやき(84)「ジャグリングの展示をつくる 6」

長めの文字起こし終わる。これで少し展示のことを考えられる。

ジャグラーである、と言葉で考えてもしょうがない。ジャグラーはジャグリングをしている間に、特にジャグラーである。だから今日は少し真面目にジャグリングをした。ああ、これだと思った。

僕はブレイクダンスの映像を見るのが大好きなんだけど、いつも羨ましいなぁ、と思っていた。こんなにも自在に自分で表現ができるのって、素晴らしいなぁ、と。

でも考えてみれば僕にはそういう手段として、ジャグリングがある。(本当に、忘れるんである、こういうことを)

もちろん自在とはほど遠いが、ジャグリングで、ある程度の質感を表現することはできる。これこそ俺がしたかったことじゃないか、と思う。そして、なんか今まで俺はジャグリングがどういうものであるかということに縛られていたんじゃないか、とも思う。別に、自分がしたいようにジャグリングしたらいい。

ジャグリングと生活、ということには、「ジャグリングをするときの感じ」も含めねばならぬ。

※※※

インスタグラムは、もともとJugglernaoという名前で、ジャグリングの映像やらなんやらを上げていたけど、久々にジャグリングの映像をあげたらなんだか喜ばれて(あとダイレクトメッセージで髭を褒められた)これは、絵とアカウントを分けるべきだ、とやはり思った。

※※※

今日は朝は家、昼からは生活綴方の方で仕事をした。わざわざ遠方から生活綴方に、ジャグラーのめりーさんが遊びに来てくれた。こういうのは、いいね。

2021年3月27日土曜日

ながいつぶやき(83)「ジャグリングの展示をつくる 5」

頭で考えてばかりいてもね、と思う。
とにかく、手を動かして、ものを作って、出来上がってみて「さて、これをどうしてあげたら面白いだろうか」と考える、という手順であるべきだ。
それが「考える」ということの意味だろう。

何かに取り組む時、一番重そうなものをまず持ち上げないとな。

※※※
すぐ、「意味」とか考えちゃうんだけど、それ、全然意味ないよな、とよく思う。
もっと直裁的に、「これは絶対楽しい、やる」でいいのに、「妥当性」みたいなことばかり小賢しく考えてしまって、それが足枷になって全然前に進めない時がある。
もちろんそれは表裏一体で、一旦考えるからこそ問題なく進むこともあるけど足取りの軽い人には、とても、とても憧れる。

※※※
昨日バイク屋から連絡。本来は最短5月末ぐらいの納期のはずだったものが、再来週末までには乗れる状態になる、という。とても嬉しい反面、思っていたよりあまりに早いので(笑)色々と準備しないといけないなぁ、と焦っている。

まぁ、なんにしても、いろんなことが楽しみです。

ながいつぶやき(82)「ジャグリングの展示をつくる 4」

どういう展示が面白いか、改めて全力で想像している。

今日、綴方の店番の一人である久常さんと話していて、ジャグリングの展示をやるんです、と言ったら、「ジャグリングの展示ですか?」と聞かれた。

一体何を展示するんですか、ということだろう。

そりゃそうだよね。当の僕もまだ明確に説明できない。

ジャグリングの何を展示するというのか。本当は、これを一言、二言ぐらいで「これこれこういうものを展示するんです」と言えた方がいいのかもしれない。でも、これを簡単に言い表せないこともまた、悪いことではないような気もしている。ものが展示されて初めて、それをまとめる言葉が出てくるんじゃないかとも思う。

でも展示を用意する上では、指針が必要だ。

「ジャグリングと生き方」という言葉は、もうある。

うーん。

とりあえず、僕以外の展示をしてもらう人には、なんとなくでいいからテーマにそって各自で考えてもらって、僕自身は僕の方で考える、というのが妥当だろうか。

展示をするといっても、別に、僕がその場にいて話をする、とか、別に「モノを置く」ということに限らなくてもいいだろう。パフォーミングアート、みたいなくくりで。ふふ。

さて、今まで見てきた展示の中でも、面白かったものってどれだろうか?

いやはや、困ったなあ。時間がないなあ。

※※※

綴方で、『しゃにむに写真家』の著者である吉田亮人さんにお会いした。妙蓮寺のそば香で一緒にそばを食べた。ああ、こういう人がこういう写真を撮るのだ、と思った。目を見ていて、すごく伝わってくることがあった。とても感じのいい方だった。なんだか、こういう、何かと真剣に向き合っていて、それをはにかむことなく、そのまま真剣に普通に語られる方と知り合えるのは、人生の醍醐味だな、と思った。

※※※

日付が変わってしまった。

今日は一日ずっと文字起こしをしていた。終わるかなぁ、と思っていたけど、今日ノルマだった4時間分をきっかりやったので、明日と明後日は楽になる。できれば明日終わらせたい。そうすれば一旦、展示の準備に集中できるはず。

しばらく一人の時は不機嫌である。



2021年3月25日木曜日

ながいつぶやき(81)「ジャグリングの展示をつくる 3」 

展示と本の準備に集中するため、まずは日銭稼ぎの方の仕事を終わらせる。

朝からせっせと文字起こしをしたり、翻訳をしたりしている。こういう時に、自分の「仕事」について無意識に考える。

別に今持っている、お金になる「仕事」、全然嫌じゃない。

「今やっている仕事が嫌で嫌でたまらない」という人にもときどきお会いするが、僕自身に関して、そういうことは一切ない。本当に嫌になったらやめて別のことをすればいいかな、と思う。多少の不満とか気になることがある場合はなくはないが、それはなんなら、洗濯とか風呂掃除と一緒で、面倒だと思うが、やったらやったで達成感があるので取り組める。

何より自営業をやっていると、人間関係のストレスみたいなものが皆無で、まぁそれが一番大きいかな。自分の生活を保つために、お金があると便利だからそれをなるべく納得のいく手段で獲得する、ということに意識的でいられる上に、「面倒くささ」と「楽しさ」のバランスの調整が割と簡単にできる。あとは、親族にも周りの人にも、自分のことについてとやかく言う人が誰もいない、ということもあり、まぁ、その辺り、人に恵まれているんだろうね。

仕事そのものに関しても、やはりその向こうにいる「人」が好きな場合は、ああ、まぁ、なんだかんだでこの仕事はいいもんだ、と思える。

※※※

ジャグリングは自分にとって何か。

時折「ジャグリングの方忙しいかな?」と聞かれる。

「いえ、全然!」というのも何かがっかりさせるような気がして、たいてい、「まぁ、ぼちぼち」とか言う。いやしかしジャグリングのなにが忙しいんだ俺は、と思う。

日銭稼ぎはただの「ライスワーク」で、ジャグリングが自分の生活の中心である、という風に受け取られている。

でも僕は「ジャグリングの活動」ってあんまり最近はしていない。

雑誌の PONTE を活発に出していた頃は、まさに「ジャグリングで忙しい」みたいなこともあったが、うーむ、別に僕は、今、「ジャグリングで忙しい」という状況って、ない。

ただ、なんとなく、例えば演劇をやる人、お笑い芸人、ダンサー、ミュージシャン、なんでもいいけど、「芸事」に関わる人って、なんとなく、その芸が一番自分のやりたいことであって、それ以外のことは目標に向かうための補助、みたいなイメージがある。

朝から汗水垂らしてバイトをして、帰ったら夜遅くまで稽古をして、睡眠不足でまたバイトに向かう、みたいな姿が、なんとなく、モデルケースとしてパッと最初に浮かぶ感じがする。

たとえ、「そうじゃないかもしれない」と思うにしても、なんとなく、そういう在り方がステレオタイプとしてとりあえず暫定的に思い浮かぶかな、という感じがする。

僕とジャグリングに関しても、ともすると他人から見て、最初に浮かぶのはそういう情景なんだろうか。日々、人さまにジャグリングの見せるための鍛錬をしていて、それ以外は、「俺はこんなもののために生きているんじゃないんだ本当は」と歯を食いしばっている、みたいな(笑)

いや、まぁ流石に、これはステレオタイプがすぎると思うけど、でもやっぱり、全く想像がつかない世界のことを考えるとき、どうしても、ドラマとか小説とか、そういうもので描かれる「一般とは違った趣味や芸の道に進む人の姿」に引っ張られてしまうところはある。

僕が今回の展示で見せたいことは、「ジャグリングに関わる人の舞台裏」にまつわる想像力を広げてもらうためのものなのかもしれない、という気もしている。

ビーンバッグ製作記 16日目 何をつくりたいのか、あらためて考えてみる

今回関わってもらう PM Juggling のだいごさんも、色々と考えてくれている。

2021年3月24日水曜日

ながいつぶやき(80)「ジャグリングの展示をつくる 2」

昨日言った「原稿」というのは、僕のジャグリングの話のこと。

何を具体的に書いてくださいとは言われていないが、「青木さん、書いてください」と三輪舎の中岡さんに声をかけていただいていた。「年内にお願いします」と。2020年12 月の頭のことだった。

その締め切りの期間というのは、半分はノリだったのかも知れない。あるいは中岡さんのことだから、そういうふうにきつめに言っておいて、著者を伸ばすタイプなのかも知れない。どこまで本気だったのか、わからない。でもとにかく、本当に原稿を年内に書いて出して、あっと言わせてやる、と思って、朝4時に起きて毎日数千字書いていたんだけど、結局頓挫してしまった。根が本当に怠け者だ。

折に触れて、「書いていますか」とは言われるのだが、どうにも曖昧な返事しかできなかった。

だが、本をきちんと出してみたいという思いはずっとあった。ただ、僕は怠け者だから、このままだと一生本なんか出さないんだろうな、と思った。

PONTEとか、自費出版のちょっとしたエッセイ集とか、出したことはあるが、あれはまた別の話で、もっとパブリックなものが作りたい。

であれば、そのきっかけとして、「ジャグリングの展示に間に合わせないとダメ」という状況を作るしかない、と思った。

もう一ヶ月ない。

普段から「やるしかないとなれば、人はやるんだ」などと自分でも言うが、実際に自分をそういう状況に自ら追い込んだことなんてほとんどない。

やるなら今しかないだろうなぁ、と思った。

入念に準備をして、時期が整ったら満を持してやる、みたいなやり方はダメだ、ということも常々思っている

展示と本が出来上がっていく様子をこんなふうにしてウェブで発表していたら、本当の本当に、後に引けないだろう、と思っている。

※※※

昨日、PM Juggiling という、手作りのジャグリング道具を売るお店を経営しているだいごさんとあって話をした。今度の展示には、だいごさんにも関わってもらおうと思っている。

「ジャグリングと生き方」というのがテーマである。であれば、就職などの道を選ばず、ジャグリングとずっと向き合ってきて、PM Juggling を運営するだいごさん、こんなにも適した人はいないじゃないか、と思う。

他にも数人声はかけていて、あとは、展示という形式にどう落とし込むか、もし、必ずしも「展示」という形ではないとしたらどういうことが考えられるか、展示以外にもイベントをたくさんやりたいので、どういうことができるか、と、計画を立てている。

今のところ、トークをたくさんやりたい、と思っている。

ジャグリングの話が幅広く聴かれる機会なんてそうそうないから、選りすぐりの、面白いトークをやってやりたい、と思っている。

※※※

日銭稼ぎの仕事も過去最高に増えていて(4日以内に文字起こしオーディオ9時間分とか、笑っちゃうぐらいの量がある(笑)けどこれは計画通りやらなかった僕のせい)全然時間がないのに、昨日は、それでも、バイクに乗りたくて乗りたくてしょうがない気持ちで、何にも集中できなかったので、バイクに乗ってきた。

些細なこと、荷物を載せる部分の大きさとか、乗った時の感じとか、いろんな、ウェブで見ているだけではわからなかった、そのバイクと、自分の身体との関係性に関する一次情報がたくさん得られたので、やっぱり、パソコンと向き合ってずっとリサーチなんかするの、本当、意味ないな、さっさと形あるものと向き合うのが吉だな、と思った。

ほんとに。



2021年3月23日火曜日

ながいつぶやき(79)「ジャグリングの展示をつくる 1」

2021年4月16日から、5月5日、つまりGWの終わりまで、横浜にある「本屋・生活綴方」でジャグリングに関する展示をすることが決まった。

この書店は、僕が昨年8月から関わり始めた、地域にねざしつつ、詩歌などを中心に、ことばを扱う、またさまざまな創作を応援する書店である。

僕の展示のきっかけになったのは、ジャグリングの雑誌「YANA」である。この雑誌を仕入れたいんですが、と店長の鈴木さんに言ったら、喜んで受け入れてくださり、早速10冊仕入れて、それも思ったよりも早く売り切れ(何より、購入者がジャグラーではない人たちがほとんどだったのが意外だった)ではでは、と次は20冊仕入れた。それも好調に売れていっている。

それで、「何かイベントをやってください」と鈴木さんにせっつかれ、うんうん唸っていたのだが、それを見かねて、数ヶ月たち、改めて店の奥にある小上がりで「考えましょう」と正式に言われ、逃げ場を失った中で、そういえば、次の展示(この書店ではいつも壁を使って展示が行われている)がまだ決まってないんですが、というので、じゃあやったろうじゃないか、と、もう後には引けない状態を作ろう、と思って展示の開催を決めた。

実はこの決定には、前々から頼まれていた文章の原稿のことも関わっているんだけど、それについては明日書く。

ひとまず、「ジャグリングの展示をつくる」を、ここで連載開始することにします。

時間がないぜ。まいったまいった。

※※※

というわけで、今日はPM Juggling の大吾さんに会うために、東京の方に来ている。カフェでこれを書いている。

まぁ、これは、前から決めていたことだったんだけど、ちょうど、タイミングが重なったのだった。

僕一人で作るのではなくて、ジャグラーを何人か巻き込み、計画を進めていく予定である。

2021年3月22日月曜日

ながいつぶやき(78)星を信じないこと

昨日、調べ物をすることなんかについて書いたわけだけど、やっぱり、インターネットは意識的に使わないといけない、と今日も思った。

食べログとか、Googleの評価とかあって、確かにああいうのも一つの指標ではあるけど、それを読んでそこに行くことをよしてしまった時、それは果たして得と言えるんだろうか。

大失敗をすることも含めて、なんか、生き生きとした体験じゃないか、と思うわけである。「なんだあのラーメン屋は!」と語れるものがあることの方が、ネットで器用に調べられることよりもなんだか良さそうな感じがする。

どうしても僕は、どこかに行く前に下調べをかなり詳細にしてしまう癖がある。それが100%悪いってんでもないし、それで何か利益があることも知っているんだけど、(まぁ利益があると思ってやっているわけだ)なんだかそういう癖ばかりついてしまうと、どんどん勢いが失われている感じがする。結局僕は怖がっているだけなのである。

インターネットでもなんでも、誰かの話、というのはその人個人の体験であって、過去の体験であって、自分がそのお店や場所に行くときは、天気も違う、気温も違う、店主の機嫌も違う、自分の空腹具合も、体調も違う、いつだって未踏の領域なのに、なんだか知った気になって、足元が見えていないのはちょっと残念じゃないか。

実際には、例えばいい評価のカレー屋があったとして、徹底的に調べて、よし、ここなら大丈夫、と思ったとして、でもそのカレー屋のほんの些細なことが気になって、隣にいたお客がすごくうるさいとか、わからないけれども、全然良くない体験になることだってありうる。

逆に「店主が無愛想でとても嫌だった」とか書かれていても、僕としてはそのブスッとした感じが大好きかもしれない。しかもなんか、レビューをわざわざ書くような状況って、大体、とても良かったか、とても悪かったかのどっちかじゃないか。多分さ。

※※※

「集合知によってベターな選択をできる」のは、論理的に考えて疑いようのないことかもしれないが、やっぱり、それに依存してしまっちゃあ、なんだか小粒な人生になるような気がしてしまうんだね。

同じように、誰かにとってのノウハウや情報は、役に立つようで、実は全然役に立たない、それは多くの場合、自分の気持ちを落ち着かせたりするのに有効な場合があるだけで、実戦に出てさっさと失敗した方が早い、ということもあるね。

まぁなので、誰かの「情報」は、精査する対象ではなくて、とっかかりぐらいにして、あとは実際に現場で、自分で精査する方がはるかに楽しいだろうね、っていう話ですね。

僕は今日、近所にできたカレー屋さんに行ってみようと思う。値段とか、調べてみようか、と思ったけど、なんのこたあない、自転車で3分なんだから行っちゃえばいのである

大体カレー屋ごときでどんな失敗するっていうんだ。

なんだってやればいいのである。

ながいつぶやき(77)変に散漫に、断片的に調べ物をするんじゃなくて、いっそ

さて、今日も15分である。日付が変わりそうだ。

もう、昨日考えていたことをそっくり忘れて、まぁ今日は短めで終わらせようか、とか考えていたので、昨日の文章を読んでみたら、おお、と襟をただされた。

ここまで織り込み済みで、昨日の文章には

迷ったら、この記事を読み直して、なんでこういうことをしてるのか、思い出す。

と書いてある。

その通りでした。もう、迷っていました。そうそう、15分間は、真剣に、考えていることをクリアにする、ということを日課とするんだ。

※※※

さっき、面白い計画が持ち上がった。

ずっと僕がムニャムニャ頭だけで考えていたことを、人と一緒に考えて、話して、これはもう、船に乗らなきゃ、という気持ちになって、ついにそれを動かすのである。まだ具体的な話はしない(というかできない)けど、その計画についても、もう、今、こうして、初めのエンジンがかかった今この時、文章と、絵と、具体的な、日にち、いつまでに、これをやる、ということを、明確に定めなければ。

これが最終的にこうなるんだ、ということをわかっていると、ようやく、エンジンがかかる。

※※※

エンジン、という話でいうと、今日文字起こしをしながら思ったことがあるんだけど、バイクのことについて勉強しようと思った。

なぜか。

僕は、文字起こしをしている最中でもなんでも、とにかくここ最近は、バイクのことばかり散漫に調べてしまう。昔のバイクとか、今のバイクとか、どういう仕組みなのか、とか2ストロークと4ストロークの違い、とかそういうの。

で、こりゃあさあ、変に散漫に、断片的に調べ物をするんじゃなくて、いっそ、一つの体系だった、まとまった勉強として取り組んだ方がいいんじゃないか、と思ったんだよね。

そのほうが燃える。

集中力の散漫を、「勉強」として収斂させていく、というのがいいんじゃないかと思ったんだね。

なんでもかんでも、知識の体系を築く姿勢で取り組めばいいんじゃないかってさ。

YouTubeとか、なんでもそうだけど、インターネット全般、なんか、やたらにみちゃう。

で、僕はそれをなんか一抹の罪悪感と共に行うわけだよ。でもそれは、本当は好奇心の発露であって、本当はとても有効な力なんじゃないか、って思うわけさ。で、だったらその方向さえどこかに着地するように向けてやれば、とても大きな力として、船を前に進めるような力として利用できるんじゃないかと思ったんだね。

フィンランド語とかにしてもそうで、それをさ、中途半端にやるから、なんだか無駄になってしまうわけだよね。

なんでも、知識を体系として、まとまった形で仕入れる、自分の血肉にする思いで、いわゆる「現実逃避」をすればこりゃあ、向かうところ敵なしなんじゃないの、みたいな、まぁ、考えの中では、そう思ってる。

実際、そういうことなんだと思うね。

2021年3月20日土曜日

ながいつぶやき(76)チャーリーチャーリー

何か書くんだったら、異常な量を書かないと意味ないんだよな。

もっと書くための機構を容易にする。

継続のためには、「決める」ことが大事だよね。調子がいい時は書く、調子が悪い時は書かない、というのでは、規則性が生まれなくて、継続しないのである。

とりあえず、最近なおざりだった15分ルール(どんなに狂うほど忙しくても15分間はこの文章に取り組む)を復活させる。迷ったら、この記事を読み直して、なんでこういうことをしてるのか、思い出す。

多分これで一歩は進む気がする。

僕の場合は今まで、何か真剣に考えたいこと、取り組みたいことを見つけるときに、自分のノートや手帳や、A4用紙かなんかに、手書きで少しアイデアを書き殴っていた。なぜ手書きだったかというと、ざっくりとしていても大丈夫だからである。何を書くのか、と言えば、まぁいろいろだけれども、明日のスケジュールをなるべく細かく立ててみる、とか、とにかく頭に浮かんでいることを文字や絵にしてみる、とか、長期、中期、短期で自分の身体が自然にやりたいと思えることを分けて書こうとしてみる、とかそういうことである。

でも、「ざっくりでいいや」みたいな態度でそういうものに取り組むのって、意味ないんじゃないかと思う。なぜなら、その「ざっくり」がより詳細に突き詰められていくタイミングというのは、そのあとでは十中八九存在しないからである。こういうのは、根拠は言えないけど、実感として、そういうもんだろう、と思っている。「今、何かに真剣に取り組みたい」と思ったら、それをその場で、なるべくクリアにする、その思考の流れを、質感が身体の中にある間に、なるべく忠実に、えいっと形にしておくことが大事である。昔は多分、そうだった。その場でなるべく多くのものを生み出したい、と思っていた。なんだか歳をとって、つまらない人間になってきたな、と自分で思わないか。思うね。楽をするようになってしまったと思うね。そういう楽さからいかに逃げるか、ということと、あとは向かうべき北極星みたいなものを見失わないことである。

いわゆる「仕事」が忙しくなってくると、なんだか、それを終わらせることを一心に考えてしまって、自分の身体がやりたいと思っていることを見逃すんだよ。だから、このブログを、そういうことがないように、一日、15分(なんて、すんごい短いけどさ)集中して、ちゃんと丁寧に自分が考えていることを述べるための時間にしたい。

これは、自分の机のノートに書きつけるメモと同じ態度で、書かれるべきものだ、ということでもある。外に出るものなんだ、という緊張感を一つの原動力にして、「そのうちやろう」と思っていることを、「今やる」ことの具体化にちゃんとしていく、という、そういう作業の場である。

そんなわけで、僕は今、心からしっくりくる表現を見つけよう、ちゃんと考える文章を、本として丁寧に書いていく、という日課を作りたい、とも思っていて(いっときできたんだけど、完全に忘れてしまったからね)まぁ、それをやるわけだ。

「〜〜をやりたいと思っている」と言っている間は、まぁ、それは実現しないことって多いね。多くの場合、それを言うことによって「少なくとも志はある」という免罪符みたいに使うことばかりなんだ。だから、ごちゃごちゃ怖がる前に、とにかく、目に見える、腕で押せる、舌で舐められる、具体性を持たせることをいつでも考えること。

※※※

旅なんか本当は好きじゃないんじゃないか、という疑念がもたげてきた。でも、そんなことはないと思うんで、ちょっと、もうちょっとシステマチックに「動く」ということをしたい。

んーむ。

これも作品にしないといかん。

2021年3月19日金曜日

ながいつぶやき(75)なんだか、持つ荷物も、もっと減らしたら人生良くなるんじゃないか、とか思っちゃったね。

 いきなり書き始めてみる。
いきなり書き始めると、まぁ、今飲んでいたコーヒーのことぐらいしか書けない。

眠気が襲ってきたのでエナジードリンクを飲んだら、寒くなってキーボードが打てなくなってしまったのである。なので、あらためてコーヒーを買いに行った。

それだけ。

※※※

今日も動いた。
まず家で一つ文字起こしのファイルを片付け、それから近所のドトールまでバイクを走らせる。
今まで、冬用のハンドルのウォーマーをつけていたのだが、そろそろいいか、と思いそれを外した。服装も、気持ち、春よりの格好をした。
その状態で走ると、なんとまぁ、今まで同じ乗り物に乗っていたんだっけね、というぐらい乗り味が全然違う。

身軽であること、というのは、本当に、気持ちまでまるっきり変えてしまうね。

なんだか、持つ荷物も、もっと減らしたら人生良くなるんじゃないか、とか思っちゃったね。

2021年3月18日木曜日

ながいつぶやき(74)怒られると、「後ろに沈む」みたいな特有の感覚があった。

なんか、今日は全然書き始められない。
うへ。
※※※
昨日夜中にちょっと電話をしていたら急に、「この身体、あまりに大きすぎる」という感覚にみまわれた。
この発声をしている主は誰なんだ、と、思考がパーティションでふたつに分かれて、あっちとこっちで別々で思考している、というような感覚である。
身体を操作する側じゃない方の、ただの「魂」部分の方は、とてもとても小さいのである。

身体感覚って本当は常に変わってるんだよねえ。

これで思い出したけど、昔学校で先生に怒られるとさ、きゅーんと自分の視点が後ろに引いて、広角になって、焦点がうまく合わなくなる、という、「後ろに沈む」みたいな特有の感覚があった。これって伝わるだろうか?

※※※
体調の変化について。
「風邪」とか「頭痛」とか「吐き気」とか、名前で呼べる症状があって初めて「体調が悪い」と認識してしまいがちだ。
実際には身体の状態は常に変化しているので、これを「症状の名前」で把握しようとすると、細かいグラデーションを見逃してしまうなぁ、と思う。
「だるい」「集中できない」「目の奥の方に何かがある感じがする」とか、そういうのでもまだ不十分。
症状を伝えるのに特化したこういう言葉は、基本的には社会の中で、誰かに伝えるために用いるのが第一義の役割である。

自分のいまの身体の状態は、その時に固有の色、重さ、感じ、距離、などを持っているので、それを把握するのに、音声言語(またはその派生、頭の中で黙読(?)してもそう)ではあまりに要素がざっくりしすぎている。

自分の体調を「把握できている」という直感は、その把握への「対応が行われた」という、行動の中にしか存在しない。

2021年3月17日水曜日

ながいつぶやき(73)体感で自分が欲しいものを考える感覚

自転車とバイクにつける運搬用のボックスについて延々と考えていた。
昨日、(あれ、一昨日だったかな)とりあえず木箱を作ってみようと思って、生活綴方にあった木箱を、店長に色々手伝ってもらいながら15分ぐらいで加工して、カバンが入るサイズの小さめの箱にした。
結局その箱は、自転車につけてしまうと降車時に足が下ろせなくなる、ということで没にした。
でも、やっぱり自分でものをいじって、体感で自分が欲しいものを考える感覚って、すごくいいな、と思う。

2021年3月16日火曜日

ながいつぶやき(72)コーヒーそのものが好きなのはドトール。安いし。

5時に起きる。起きたら絵を描く。
誰かと繋がっていることを意識せずに何かを生み出す方が豊かだ、と考えた。
集中の度合いは、自分が今向き合っている対象とどれだけ親密になれるか。
チラリとでも他者の評価が入ったような気がしたら、それだけで、ああ、失敗だ、と思う。

でもこれは、「ピンクのライオンを思い浮かべないで」というのと似ている。
「他者の評価なんか気にしちゃダメだ」と自分に言い聞かせている間は、他者がスキマから入ってきちゃう。

自然体がそのまま即ち、理想状態であらねば。

「これはしないべきである」という禁則を課している時は、たいていその約束を守れない予兆であると思った方がいい。意識すらしていなかった、という時が、一番禁則を守れている時。

これはねえ、ちょっと飛躍するけどさ、力のないことばで自分を律するな、ということでもあると思うね。
禁則の多くは、厚みを感じられない、力のないことばであることが多いと思うんだ。
「力を伴っていないことば」を、見分けられないとな。

納得のいく文章を書くために抑えないといけないポイントも、これに通ずる気がする。

力の伴っていないことばを書くな。

もちろんこれは、「いつでも力強いことを言え」というのではない。
自分の実感を、別の表現で写しとろうとする時、細かい部分まで捉える労力を惜しまないこと。文章に限らず。それが一番楽しくて、心がみちる。

※※※

ドトールのコーヒーはたいてい美味しい。
スターバックスも、空いていれば居心地はいいし、コーヒー一杯で何時間もいたりして、よく利用するけど、コーヒーそのものが好きなのはドトール。安いし。

2021年3月15日月曜日

ながいつぶやき(71)名乗る、というのを、一つのごっこ遊びと捉えればいいのだ。

あれっ?昨日、書いていなかった。

今日は動いた日であった。でも、何度も言うがこれぐらい動く日が一番脳みその調子がいい。これを忘れてはいけないんだ、本当に。無駄になっていいから動くこと。

※※※

朝は家でちょっとした作業をして、昼、今日は天気もいいし、ちょっとバイクで走らねば、と思って、‪Uber Eats‬をちょろっとやる。その最中に妙蓮寺の方に寄って、お昼ご飯を公園で食べ、またすぐに妙蓮寺をでて、どこかカフェにでも行こうと思って、‪Uber Eats‬の注文が受けられる状態でバイクでぶらぶらした。給油をしなければ、というタイミングで、ちょうどそのガソリンスタンドにドトールがあったので、(前から行ってみたかった)そこに入ることにした。そのドトール、外から見た感じも、なかなかさっぱりしていて、きっと中も気持ちいいんだろうな、と思っていたのだが、案の定、小さな店内がゆえに開いたドアがいい具合に室内の換気をしており、空気がサラッと抜けていてよかった。

今度から、カフェで少し時間を過ごしたいよ気はここに来ようかな、と思う。

店員さんも何だか和やかだったし。

そこで絵を描いて、一旦家に帰る。洗濯物を取り込んだら、今度は自転車に乗り換えてまた妙蓮寺まで行った。そこで、これを書いている。

※※※

自分が旅先にいるんだ、という妄想をすると、うまくいく。

※※※

先日6歳の子から教わったことがある。

それは、自分の頭で考えている妄想で生きるのは、とても、とても楽しいということである。

僕は昔、ぬいぐるみで遊ぶのが大好きで、カゴいっぱいのぬいぐるみをざざっと畳にあけて、手に取ったぬいぐるみをとにかく喋らして、他のぬいぐるみと交流させる、ということをしていた。

その時、僕の頭では、そのぬいぐるみたちは、はっきり、生きていた。

もちろん現実と妄想の区別がついていない、というのではなくて、むしろそのメタ認知ははっきり存在しているんだけど、その理解がある中で、頭の中で展開される「こうだったらいいな」を、近似値で現実に投射していた。

それこそが僕の「遊び」の真骨頂だったのである。そして、今でもそれは、もう少し洗練された形で、行えることのはずなのである。

僕はこのところそれをすっかり忘れていて、でもその女の子と一緒に、タイムスリップをしたりしている間に、ああ、なんだ、俺のやりたかったのは、これじゃないか、と思ったのである。

最近僕は自分のことをどう名乗るか、ということについて考えていたんだけど、それについての一つの天啓が降りてきたような気分だった。

名乗る、というのを、一つのごっこ遊びと捉えればいいのだ。

(続く)

2021年3月13日土曜日

ながいつぶやき(70)なんでもかんでも全力で丁寧にやる、ということが必ずしも自分の防衛手段として適切ではない、ということ

 心から楽しんでないなぁ、ということは日常の中にいくつかあって、たとえば、もっと本能的にやりたいと思うことを仕事にしたい、と思う。その際、別に一から新しいことを始める、というのではなく、遊びと仕事を真逆に転換しちゃう、みたいなことがとても大事である。

同時に、自分はどんな仕事をしたいか、ということに常に意識的であって、かつそれを自分で絶えずメンテナンスする、ということも重要なんだろうと思う。

力の入れ方を間違えないようにする、ということでもある。なんでもかんでも全力で丁寧にやる、ということが必ずしも自分の防衛手段として適切ではない、ということを肝に銘じたいと思っている。

2021年3月12日金曜日

ながいつぶやき(69)なんか、入り口にすら立てていない感じがしたりするのである。

書くことが全然思いつかない。
今日はちょっと色々あって桜木町のカフェで仕事。
あそこはとてもいいのである。

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英語の翻訳をしていて、わからないことが多くて、ああ、俺は本当に、まだまだ全然インプットが足りていないんだよなぁ、と思って気が引き締まる。
日本語だったら、ある程度、知らない話題だったとしても予想がついたり、それなりの理解はできる。
英語だとそれが全然できない。

この言語が、実際に人々に使われて、一つの世界を構築しているんだ、と思うと、それはいわゆる「科目」みたいに勉強して、範囲を決めて、ここまでできたらまずまず、みたいな考え方だと、なんか、入り口にすら立てていない感じがしたりするのである。

2021年3月11日木曜日

ながいつぶやき(68)ぐるぐるすること。3つのこと。

ぐるぐるすること。3つのこと。

・1日のうちに必ず3箇所に行くこと。

・1日のうち必ず3人の知らない人か動物と言葉を交わすこと。

・1日のうち必ず違うアクティビティを3つ行うこと。

ウーバーをやると、この3つは簡単に達成できるね。


今日は、コープの人、床屋の人、猫と話した。


自分一人でいて、家にいて、拡散していないと、すぐに「怠けちゃう自分のこと」とか、「とりえた選択」とかのことにばかり気が行っちゃって、実際には体はパソコンや携帯の前でじっとしているだけ、ということばかりなので、家で全部こなせる仕事であっても、あえて、それを、一個の固有の経験にするために、場所を変えて行うこと。

※※※

このブロガーのブログ、フォーマットが単純でとても気に入っている。よし書こう、と思ったらスッと書けて、スケジューリングも楽だし、別に僕は収益化なんてする予定ないので機能も十分だし、色々都合がいい。カテゴリ、が明示的にはなくて、ただ「ラベル」があるだけなのもいい。あんまりこのブログ特有の「色」みたいなのもないので、noteに書くとすぐに陥ってしまう「note然とした文章」も避けられる。

ここは、あくまで個人的な、雑多な所感と自分に向けたアドバイスみたいなものを、見るひとはもしかして見てるかも、くらいの感覚でぼんやりと共有する、思考のアウトレットとして適切だな、と思う。

これはこれで毎日続けつつ、インターネット上のオフィシャルな場をもう一回、きちんと組みなおそう、と、思って、いる。

2021年3月10日水曜日

ながいつぶやき(67)「楽をするな」でいい気がした。

やらないといけないことが詰まっている時、どうしても「気をすます」を蔑ろにしてしまうのがよくない。

とても天気がいい。だったら、外にでたい。

その気持ちを、とにかく自分の納得いく形で一旦すませる方が、結局そのほかのやるべきことがスムーズに終わることが多い。

気が済んでる状態で仕事に取り組むと、スムーズなのである。イライラしないし。

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なんか、自分を常に戒められるような座右の銘っていうか、モットーみたいなものが欲しいと思っていたけど、「楽をするな」でいい気がした。

これは、横着して、自分の身体のいうことを聞かない、ということを戒めてもいる。

最高にシンプルでわかりやすい。

2021年3月9日火曜日

ながいつぶやき(66)常に「やりたいこと」について考えている、ということで

今日は色々やった。起きるの少し遅かったが、そのままスッと文字起こし、翻訳などして、少しUBERする。帰りぎわに、見たかったバイク屋などみる。帰ったらすぐにラーメンを食べて(最近は本当にラーメンばかり食べている)今度は妙蓮寺で、文字起こしや翻訳の続き。

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ものを買おうかどうしようか、と迷うときは、いつでも行動をベースにして考えたいね。

で、行動がベースになるとはどういうことかというと、常に「やりたいこと」について考えている、ということである。

2021年3月8日月曜日

ながいつぶやき(65)あとはわりかしどうにでもなるんだろうと思っている。

大事なのは技術ではなくて、 要は気持ちの持っていきようなんじゃないか、ということをふと思った。

まだ今日の分の絵を描いていなくて、どうしようかな、何を描こうかな、と思って少し嫌な気分になったが、これは、方向性が定まっていないことが原因である。

何が目標で描いているのかわからない。

でも同時に、それはそれで正しい。もちろん目標がはっきりしていて、狙うべき範囲がわかっていればいいんだけど、大概のことは、「なんでそれをやるべきか」なんてわからないでやる。

目標がないけど、描いているうちにいきたい方向がわかる、というのが常だよね。

これが難しいところだ。

「実際にやってみないとどっちにいきたいかは分からない」というのは。

だから、ひとまずやり始めるしかなくて、その「やったるか」という気持ちにだけ、どう持っていくかがすべてで、あとはわりかしどうにでもなるんだろうと思っている。

2021年3月7日日曜日

ながいつぶやき(64)要は、方法の選択が賢い、ということであると思っているのである。

なんかこう、「僕は勤勉で、毎日コツコツものを続けるのが得意で、特にサボったりはしないですね」という人って、まぁ会ったことないね。
基本的にどんな人も「いや、私は本当は怠け者なんですけど」という。
それは真理で、いや、もう、実際、人はいわゆる「怠け者」であることが性分、基本的には自然なのではないかと思う。
それが生存本能なのだと思う。
自分に合っていないと判断すると、すぐさまそれをやめるように脳から指令が下る方が、だって、それは、正常に機能しているということですよね。
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外からは自主的になんでも溌剌とサボらずやっているように見える人も、全然、見えていないところで、ポケーっとしたり、なんだか生産性のないことに時間を費やしてしまったり、絶対にしているだろうと思う。

それでも、何か生産の量に差が出るのはなんでだろう、ということを僕は考えるんだね。

僕としては、「やる気に満ち溢れてやっている」という状態を、意思で毎回作り出す、というのではない方法で、外にものを作り出しているんだろう、と推測するわけである。

要は、方法の選択が賢い、ということであると思っているのである。

2021年3月6日土曜日

ながいつぶやき(63) 「我楽他宗 —— 民藝とモダンデザイナーの集まり」で受けた刺激。多摩美遠い。

昨日行った展示会で、大いに刺激を受けた。

我楽他宗 —— 民藝とモダンデザイナーの集まり

この展示のキュレーターをしているヘレナ先生とは、大学生の頃から交流があって、もうかれこれ5、6年ぐらい、翻訳の仕事をもらったりしている。今回はその縁もあって、(まぁ、というかこの展示の解説文の翻訳なども請け負っていたので)会期終了ギリギリで行ってきた。

今まで文章では散々読んでいたけど、実物を見たことがなかったものたちが一堂に会していた。

その中でも、この我楽他宗を率いた三田平凡寺の描いた絵がとんでもなく味があった。

今自分が描いている絵で、足りていなかったものを直接示すような部分があった。

それは、言葉で大きく捉えてしまえば「まぬけさ」であるのだが、そのまぬけと、真剣味の塩梅がちょっとこれ以上ないくらいによかったのである。

しばらく、頭の中で反芻しながら自分の絵を描くことにする。

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にしても、多摩美、遠かった(笑)まぁでも、あのキャンパス結構好きで、気分転換には、なったかな。

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この辺りも参照。

https://www.axismag.jp/posts/2021/02/337630.html

2021年3月5日金曜日

ながいつぶやき(62)最近やたらに鼻血が出る。

最近やたらに鼻血が出る。空気が乾燥しているといつもこうだ。

子供の時、みんなの前で鼻血が出るのがすごく嫌だった。

今も覚えている感覚がある。
鼻血を出している時はみんな敵に見えた。
自分はこうして血を出して、止血のために片手も(片鼻も)塞がって、集団の流れから完全に外れて恥ずかしい気分でいるというのに、周りの人はまるで何も起きていないかのように振る舞うのだ。

自分の周りの人間って、俺の感情に起伏があったら、それに大なり小なり呼応するようにその姿を変えるのかと思っていたら、あれ、全然そんなことない、自分が内面で何を思おうとも、全然変わったりなんかしないんだ、と思って、悲しかった。

当時はそれを「恥ずかしい」という感情でしか捉えていなかったが、集団の中で冷ややかな目で見られて、孤立して助力を失わないようにしたい、という生存本能なんだろう。

ながいつぶやき(61)できる限り世界にある素晴らしいものをいっぱい知ってから死にたい。

続けないと出ない味はあるが、続ければいいものになるわけではない。というのが、まぁ、難しいね。

さっき絵を描いていて、トントンとひたすらドットを打つ部分があった。ある面があって、そこを全部、その地道なドットで埋めてやろうか、とその作業を始めた。

最初は、その面を全部ドットで埋めたらそれなりに壮観になるんじゃないか、と思ったが、途中で、いや、多分これは壮観にはならないな、と思ったのでやめた。

過去に一度、結構な量の黒塗りを地道にしたんだが、あんまりいい絵にならなかった記憶が蘇ってきたのである。

原因としては、そもそもの絵がまずかったのと、それを最後まで丁寧に塗り通せるほど忍耐力がなかった(or それだけの対価を支払おうと思わせるだけの魅力が絵になかった)ことだと思う。

まぁいずれにせよ最終的にいいものにするには、まず、先立って「いい輪郭線」がないといけないな。

次に、半分ぐらいの確信に導かれた地道な作業がくる。

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つまりこれは、毎日ものを書く、ということにも言えて、まぁ僕なんか妥協ばっかりだけど、どうなんだろう、みんな、どのくらい妥協しているだろう、と思う。そしていわゆるストイックと言われるような人は一体どれぐらい自分に厳しいんだろう、と思う。

とりあえずそう思うときは、手塚治虫が空港に向かうタクシーでも漫画描いてるようなドキュメンタリーとか見たりする。

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受動的な体験の厚さと、アウトプットの魅力の関係について考えている。

例えば流行りの漫画読んで、YouTubeばっかり見て、みんなと似たようなリソースを摂取して、果たしてユニークなものができるか、という命題。

いや、その可能性も十分あるけど。

その上で、僕としては、なんかさ、もっと分野横断的な体験を色濃くしないと、本当に、自分の感性が痩せ細っていく気がしてる。できる限り世界にある素晴らしいものをいっぱい知ってから死にたい。

2021年3月3日水曜日

ながいつぶやき(60)「ものに執着しない」生活だなぁ

ブライアン・イーノの日記を読んでいる。最近Kindleを買って、これを英語専用の端末にすることで英語を今まで以上に読もう、という作戦があって、その第一歩として読んでる。音楽もいいけど、彼の文章もとても知的でいい。

あんまりSNS上で時間を過ごしたくない、ということもあって、「専用のもの」や「専用の時間」を極力たくさん持つようにしていたい。

※※※

MacBook Air、新しいものが届いた。昼間、到着通知がきて、早速コンビニに取りに行って、帰ってきたらすぐさま開けて、いつも通りセットアップして、もう15分後には大体必要なデータを入れて仕事をし始めていた。

ここ数年は仕事に必要なデータを全部iCloudで管理しているので、使うデバイスが変わっても一瞬でいつも通りの環境にすることができる。

こういう仕組みと親和性があるのが、やはり、「ものに執着しない」生活だなぁ。

今使っているMacBookも、次のもっと軽量のものが出たら、さっさと乗り換えて、古い方の値段が下がらないうちに売る、というサイクルでやりたいなと思っている。

でもとりあえず、新しいMacBook、すこぶる調子がいいです。

いい経験がたくさんある方を選ぶようにしなきゃな。

2021年3月2日火曜日

ながいつぶやき(59)自分に必要なリソースを自分の中とその周辺に持っている、ということがいい。

音楽を聴くのに、最近はもっぱらYouTube musicを利用している。

大体なんでも聞けるので割に重宝している。

一方で、自分の手で音楽をコレクションしたいという思いもある。CDでもいいし、なんならレコードみたいな、もう1段階アナログなもので集めたい気分もある。

その根本はどういう思いか。たぶん、「自分のものだ」と言えるコレクションを持ちたいのだと思う。「物質として所有したい」ということも含むし、さらにいうと、「自分の頭で全てを把握したい」という欲でもある。

外国語の習得は、まさにそういう欲の現れで、実はこれはモノの所有欲と近いんだな。

自分の思いのままにできるモノや知識がある、ということがいいんだ。

もちろん、サーバー上に情報があって、それをいつでも取り出すことができる、ということを所有とほぼ同じだとみなしてもいいんだけど、なんだかそれは違う。

自分に必要なリソースを自分の中とその周辺に持っている、ということがいい。

2021年3月1日月曜日

ながいつぶやき(58)前を見てスーッと、こう

さあさあ、いよいよ忙しくなってきたよ。

ちょっと気を抜いたら、何だか、ひょっと全部バランスが崩れてしまいそうな、そんなところにいる(笑)けど、終わらせるべきことは一応、大体予定通りに終わっているので、このまま、前を見てスーッと、こう、二輪教習の一本橋みたいな感じで、とりあえず渡りきりたいな、と思うのである。

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以前から折に触れて仲良くしてもらっているジャグラーの芹川くんが、こんなビデオを見つけてきてくれた。



 


2016年の年末にラスベガスでジャグリングの大会である。公開されていたの、知らなかった。懐かしい。
これは別にショーケースが主目的の大会ではなくて、スポーツとしてのジャグリングを振興するための大会なので、本丸は、競技会。
その余興みたいな形で出させてもらったのであった。
なんか、完全に忘れていた。

楽しかったなぁ、この時。